憲法上の婚姻の自由とは「国家からの自由」でなく「アクセス権」

これらの学説を参照すると、憲法24条のいう「婚姻」の内実として同性カップルの「婚姻」というものが観念しうるのか、憲法上の「婚姻」とはそもそも男女が取り結ぶ一定の関係なのではないか、そして「同性」と「婚姻」を結びつけることが法的に可能なのかという問いが浮かぶ。

憲法24条が同性婚を想定していないのは確かだとして、憲法学説も民法学説も、従来、憲法24条の「婚姻」としては男女のカップルのそれを暗黙のうちに想定してきたと言える。「同性」という言葉と「婚姻」という言葉がそこでは結びついておらず、したがって「同性婚の自由」なるものが憲法上存在するかも定かではないのだ。

なお一般に結婚の自由がいわれるが、異性カップルであれ、同性カップルであれ、カップルが愛し合い、助け合い、結婚式を挙げる等の事実上の結婚を国家が妨げるならば、その国家行為は、幸福追求権を保障した憲法13条に違反すると評価されるであろう。

しかし本稿で問題としているのはそのような事実上の「婚姻」ではなく、憲法24条が自由を保障した「婚姻」である。そこでの「婚姻の自由とは、法の設定するさまざまな効果へのアクセスを保障する権利」(長谷部恭男・前掲書、133ページ)である。国家からの自由と観念される自由権的性質を持つ権利ではない。

男女のカップルと同性のカップルの違いは何か

では憲法上および民法上の「婚姻」はなぜ男女のものなのか。男女のカップルと同性のカップルの違いは何か。それは生殖可能性の有無以外に見いだせない。令和4年6月20日の大阪地方裁判所判決も現行法の婚姻を「男女が生涯続く安定した関係の下で、子を産み育てながら家族として共同生活を送り次世代に承継していく関係」としている〔大阪地方裁判所 第11民事部 平成31(ワ)1258 判決〕。

現行の憲法および民法は、生殖可能性のある男女のカップルを類型的に取り出し、それに法的保護を与えている。不妊、高齢等の理由で実際には生殖能力のない男女のカップルでも現行法が婚姻可能としているのは、生殖能力の有無を国家が調べて「婚姻」を許可する制度が個人の尊厳(憲法24条2項)を著しく害するからにすぎない。それゆえに男女のカップルであれば一律に生殖能力があるものとみなしているのだ。