「息子がこんな暴力沙汰を起こして申し訳ない…」

兼隆が声をあげて泣いたのは、こんな暴力息子を持った悲しさ、宮中のイベントで僧俗が注視する中、息子がこのような暴力沙汰を起こしたことの心からの情けなさがまずあったでしょう。

柳田の言う「表現手段」という観点からすると、声をあげて泣くことでそうした感情を周囲に見せ、うちひしがれた父親を演じて見せる、涙によって「誠意」を見せるということも、とくに加害者側の父の心にはあったかもしれません。

ちなみに1021年当時、被害者・経定の年齢は未詳、父の道方は54歳。加害者・兼房は21歳。父の兼隆は37歳です。54と37の大の男が衆目の中、声をあげて泣いていたわけですから、“いとさまよく”泣いた源氏とは対極の見苦しさがあったに違いありません。

北条政子の命令で頼朝の愛人宅を壊した御家人が受けた仕打ち

とはいえ、平安貴族が泣くというのは現代人のイメージの範疇はんちゅうでしょう。

しかし、平安末期、武士も声をあげて泣いていたことが北条氏による歴史書『吾妻鏡』(1300ころ)を読むと分かります。

源頼朝の妻の北条政子が長男の頼家を出産した寿永元(1182)年のこと。

頼朝が亀前という女を寵愛し、伏見冠者広綱の飯島の家に滞在させた。それを、北条時政の妻の牧の方が継子に当たる政子に教えたために、激怒した政子は牧三郎宗親に命じ、広綱の家を破却して、恥辱を与えた(寿永元年十一月十日条)。

それを知った頼朝は怒りのあまり、“手づから”宗親の“もとどり”を切らせた。そして、

「御台所(政子)を重んじ申し上げることは感心なことだ。ただ、彼女のご命令に従うにしても、こうしたことをなんであらかじめ内々に告げ知らせなかったのか。それをせずにすぐさま恥辱を与えるとは、考え無しの奇怪な企てだ」

頼朝にこう言われると、

“宗親泣きて逃亡す”(同十一月十二日条)

ということになり、それを知った政子の父時政は、頼朝の仕打ちを不快として伊豆に退去してしまいます(同十一月十四日条)。

「伝源頼朝像」(画像=藤原隆信/神護寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

泣いて逃げた武士の心中にはどんな感情があったのか

政子が夫の愛人のいた家を打ち壊させたことは有名な話ですが、政子と頼朝の板挟みにあう形で、頼朝に髻を切られるという屈辱を受けた牧宗親は泣いて逃亡したというんです。それを受けて、今度は時政が伊豆に退去するという騒ぎになる。

牧宗親は牧の方の兄弟です(『吾妻鏡』建久二年十一月十二日条)。時政にしてみれば、娘政子の命令を忠実に果たした、妻の兄弟が、武士の命である髻を切られたのですから、頼朝に対して怒るのは当然です。

それにしても泣いた宗親が当時、何歳であったかは不明ですが、いい大人に違いありません。そんな大人の武士が、「うわぁぁああん」と泣いて逃げ出す様を想像すると、ちょっと可笑しい気持ちもするものの、これもまた頼朝に対する感情の「表現手段」、髻を切られた悲しみと怒り、頼朝を怒らせたことへの申し訳なさなどがないまぜとなった“泣き”であったのかもしれません。