人前でわんわん泣く老人もいた明治時代

柳田は、男に限らず、「人が泣くといふことは、近年著しく少なくなつて居る」といい、かつて俳諧の中から、男が泣く場面を探してみたことがあるといいます。すると「幾らでも」出てきて、「まだ元禄の頃までは」少なくとも老人はよく泣いていたといいます(ということは、『日本国語大辞典』のあげる西鶴作品は「男泣き」の初出に近いのかもしれません)。

そして、「とにかく私などの五十年間には、子供以外の者に泣かれた経験はもうよつぽどすくないのである。少しはあるけれども大抵は若い頃の出来事である」と、自分の若いころはともかく、近年は子ども以外の者が人前で泣かなくなった、と指摘します(「涕泣史談」『定本柳田國男集』所収)。

「涕泣史談」の初出は昭和16(1941)年。このころには大人は人前ではめったに泣かなくなっていたわけです。そして柳田は明治8(1875)年生まれですから、彼の若いころというと1880年代から1900年代くらいを指すのでしょう。つまりは明治半ばにはまだ老人の中には、人前でわんわん泣く向きが残っていたわけです。

『源氏物語』光源氏の「見ていて快い」泣きっぷり

気になるのは柳田が、

「今日の有識人(略)は、泣くといふことが一種の表現手段であつたのを、忘れかゝつて居る」

と指摘していることで、確かに平安文学などを読んでいると、人前で泣くことによって自分の意思を表明しているくだりは多々見られます。

たとえば『源氏物語』にはこんなシーンがあります。正妻の葵の上が死に、源氏が葵の上の実家である左大臣邸を退去する際、

「お泣きになる様は胸に迫る感じでいかにも心がこもっていながら、“いとさまよく”(見ていて快く)優美であられる」(「葵」巻)

当時は男が妻の実家に通う、通い婚が基本です。葵の上が死んだため、源氏はもう左大臣邸には通って来ない。それで左大臣邸の人々と別れを惜しんで泣いているのです。その様子がいかにも心がこもっていながら取り乱しもせず、見苦しくない。“いとさまよく”、実に見ていて快い様子であるというのです。