「なじみの女」がいない勝家に軍配
そこには、
とある。すなわち、秀吉と勝家はともにお市の方に想いを寄せていたところ、織田信雄と同信孝との間で主導権争いがあり、信孝が、秀吉にはすでに妻(「なじみの女」)がいるので、お市の方を侍女にするつもりかと言って秀吉の申し出を退け、対して勝家には妻がいないうえに、若い時期から織田家に忠功をはたらいていると主張し、お市の方も信孝の主張を支持して、勝家と結婚した、という。
ここでは秀吉と勝家がともに、お市の方に想いを寄せていたこと、信孝が信雄との主導権争いを優位にするために、勝家を味方につけるため、秀吉の意向を退け、お市の方も信孝の主張を支持して、勝家と結婚することにした、という内容になっている。
江戸中期の史料にも同じエピソードが
もう一つの史料が「祖父物語」である(『史籍集覧』十三巻三二七頁・前掲書八二六〜七頁)。同史料については、これまでは慶長年間(一五九六〜一六一五)頃の成立とみられていたが、文中の表記内容などから、江戸時代中期くらいの成立と考えられる。
そこには、
とある。すなわち、お市の方は「天下一の美人」の評判であったため、秀吉はお市の方との結婚を要望したが、勝家はそれに対抗して、岐阜城にいって城主の織田信孝とはかって、お市の方を自身のもとに迎えて、妻にした、という。ここにお市の方が「天下一の美人」と記されていることが注目されるが、それについては後ほど取り上げるので、ここで取り上げることはしない。
ここでは、秀吉と勝家の主導権争いは、互いの威勢を争ったものとも、お市の方をめぐるものであったともいう所伝を伝えて、後者について、秀吉がお市の方と結婚することを要望していて、勝家はそれに対抗するために、織田信孝を味方に付けて、お市の方との結婚を実現させた、という内容になっている。