デザインだけでなく場所も以前と異なる城

こうした例は枚挙にいとまがない。1959(昭和34)年に再建された岡崎城天守(愛知県)も、古写真などを基に江戸時代の外観を復元したものだが、小田原城と同様、かつてはなかった廻縁がつけられてしまっている。

同じ年に再建された小倉城天守(福岡県)は、各階の屋根に破風と呼ばれる飾りがひとつもないのが特徴だった。ところが、飾りがなくては地味だという理由で、たくさんの破風で派手に飾られてしまった。1980(昭和55)年に建った今治城天守(愛媛県)も、かつて存在した天守は破風がなかったことがわかっているのに、別の櫓の跡地に破風だらけで再現された。

1961(昭和36)年再建の岩国城天守(山口県)は、昔の絵図を参考に建てられたが、もともとあった位置から有名な錦帯橋からの眺められる場所に、30メートルほど移動されてしまった。

1954(昭和29)に建てられた岸和田城天守(大阪府)は、かつて存在した天守が5層だったことが絵図などからわかっていながら、3層で再建された。

それどころか、平戸城(長崎県)は1962(昭和37)年に、中津城(大分県)は1964(昭和39)年に、唐津城(佐賀県)は1966(昭和41)年に、それぞれ鉄筋コンクリート造で天守が建てられたが、これら3つの城のいずれにも、かつて天守は存在しなかった。

2008年4月6日、唐津城(写真=mahlervv/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

観光客を誘致するために、ランドマークとして天守を建てる。その発想自体が否定される必要はない。しかし、誘致した観光客が歴史を誤解することになるなら、その建築は罪つくりである。ある城にもともと天守がなかったなら、そこには歴史的な理由があるのだ。

史実にそぐわない天守は壊したほうがいい

明治政府を主導した人たちに教養がなかったからだろうか。日本の建築技術の粋を集めて建てられ、すでに200~300年の歳月を経ていた文化財の数々を、単なる封建時代の遺物と決めつけて破壊してしまった。私はそのことがはなはだ残念で、かつての姿を正確に再現できるなら、歴史的景観をよみがえらせてほしいと願う。

一方、天守がなかった城に建つ天守は、むしろ壊したほうがいいのではないかとさえ思ってしまう。また、観光用にあえて姿を派手に改変した天守は、せめて改築して、歴史的な姿に近づけてほしい。

とにかく現実には、歴史的な風景かと思えば、かつて竹下登内閣のふるさと創生事業でつくられた純金のカツオ(高知県中土佐町)と変わらないようなシロモノも多いので、注意が必要なのだ。それは決して大げさな物言いではない。なぜかといえば、墨俣一夜城(岐阜県)は実際、このときの1億円を元手に歴史的事実を無視して建てられている。