平安時代のほぼ同じ時期に女房として宮仕えをし、女流作家として活躍した紫式部と清少納言。2人は対照的な性格だったと言われているが、実際はどうだったのか。歴史小説家の杉本苑子さんと永井路子さんの共著『ごめんあそばせ 独断日本史』(朝日文庫)より、2人の対談を紹介する――。

紫式部の父の越前赴任の裏で起きた悲劇

【杉本】庶民は自力で生きるほかないし、官吏社会は昇進の遅速をめぐってだれもがストレスの塊……。

【永井】出世競争は今より激しかったでしょう。上の人を飛び越して出世すると、飛び越されたほうは悔しくて、それだけで死んじゃったりするんだから。(笑)

【杉本】紫式部のお父さんの藤原為時ためときが淡路守になったとき、源国盛くにもりが越前守に任ぜられた。為時は悲しんで一条天皇に漢詩を差し上げて直訴したでしょ。越前のほうが実入りのよい上国だから……。

その詩が泣きどころをつくうまさだったから、天皇は「それじゃチェンジしよう」と代えてしまった。そうしたら、国盛は死んじゃったわね。きっとノイローゼから胃潰瘍でも起こしたんでしょう。

土佐光起筆 紫式部図(一部)
土佐光起筆 紫式部図(一部)(画像=石山寺蔵/ CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

【永井】だけどそのときは、越前に宋の人が来てたの。それで、宋の言葉、要するに外国語ができなきゃ、交渉ができない。為時は語学の能力を買われたのよ。

【杉本】彼、宋語があやつれるの?

【永井】いやあ、筆談だと思う。学者の家の出だから詩も確かにうまい。そこで、詩に感じたという形で彼を任じたのよ。ここが、平安朝の本音と建前の使い分けでして。

「わが国は疲弊している」と外交を遮断

【杉本】宋人が漂流して来たのは彼の任官以前なの?

【永井】流れてきたというより、貿易したいの。ところが、絶対に都に入れないのね。それで、その商人が若狭守をぶんなぐったりするのよ。でも、ここが、今の政治より良心的なところよ。日本は亡弊ぼうへいの国だから人に見せられないってわけよ。今みたいに日本はいちばんいい国だなんて言わないの。(笑)

【杉本】明治とは雲泥のちがいね。どこか外国の皇太子が来たとき、「夷狄いてき紅毛はけがれているから、御祓おはらいしなければ皇居の二重橋を渡らせない」って言ったんですって。(笑)

神国思想。国粋主義を根にしたうぬぼれね。700、800年経過したら日本人の頭の内容は、それだけ変わっちゃった。

【永井】でも、わからないのね、外国の事情は……。

【杉本】そうなの。国際場裡に日本を置いた場合、諸外国との力のかねあいや状況の全体像が的確に把握できないのね。

【永井】あれでよく過ごしたと思うわね。隣の火事も御存知なくて。