新しい千円札の顔である北里柴三郎は、ペスト菌の発見者として名を残した。医師であり作家である海堂尊さんは「日清戦争直前の香港でペストが流行し、北里はペストの病原究明を自分の研究所の実績にするため渡航。その調査にはライバルである東京帝大の教授たちも同行し、香港で命懸けのペスト菌発見レースが行われた」という――。

※本稿は、海堂尊『よみがえる天才7 北里柴三郎』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。

北里柴三郎
北里柴三郎、1910年(画像=『北里柴三郎伝』/北里研究所/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

明治27年、忘れられていた「黒死病」が香港で流行した

日清戦争が始まる直前、北里は感染症の大事件に巻き込まれた。

ペストが発生した香港に、政府調査団として派遣されたのである。

14世紀、欧州の全人口1億人の4分の1を殺し、かかれば100人中98人は死ぬと言われたペストは別名「黒死病」。その由来は全身が黒ずむという、特徴的な症状によるものだ。その脅威は、ボッカッチョの『デカメロン』やデフォーの『ペストの記憶』、カミュの『ペスト』等の文学作品にも描かれている。

齧歯類げっしるいに寄生したノミにまれて感染すると、近傍のリンパ節が腫れて「せんペスト」になり、高熱を発し不穏、精神錯乱、意識障害を来す。

飛沫感染すると「肺ペスト」になり、未治療だと発症後3日から5日で死亡する。菌が全身に回れば「敗血症ペスト」で死亡率は6割である。中世、ペストの検疫は聖書に基づき、流行地に寄港した船は40日の検疫を命じられた。その間にペストが発生したら上陸を禁じられ、船員は飢え死にする。幽霊船の起源である。

研究所を設立した北里は「千載一遇のチャンス」と香港へ

だが19世紀半ばに細菌学が打ち立てられて以後、欧州でペストの大規模な発生はなく、ペストはコッホの細菌学の洗礼を受けないまま、闇に身を潜めていた。

明治27年4月、英領香港の中川恒次郎領事が「疫病が流行中で毎日数百人が死亡す」という、奇妙な打電をした。内務省衛生局の保健課長の柳下士興やなぎしたしこうが「コレラか?」と問うと「あらず、『ビュボニック・プラーグ』なり」との回答だった。

柳下に相談された伝研部長の高木友枝は図書館で調べ、ペストの英語名と判明した。

その頃は滅亡した病気と思われていて教科書にも記載がなかったのだ。

中国の雲南高原に潜在したペストが3月中旬、広東地方に広がり、数週で死者6万に達し香港に侵入してきたのだ。北里は「これは旗揚げした私立伝研にとって千載一遇のチャンスたい。政府から調査団を出させるばい。団長はおいがやる」と言った。

井上馨内相は直ちにペスト調査団の派遣を決し、5月19日付官報でペストの詳細を掲載、大日本私立衛生会はペスト特集号を緊急出版した。5月21日付「時事新報」は香港のペスト患者が340名、死者270名に達したと報じ、福沢諭吉は「ペスト侵入を抑えるため、数百万円という多額の国費を投入する意義がある」と論じ、援護射撃した。