帝大チームの医師が死亡、福沢諭吉は北里を帰国させようとする

長与前衛生局局長に相談された高木友枝は「そんなことをしたら、たとえ生き残れたとしても、北里の名が死にます。北里は絶対そうしません」と答えた。事実、北里は内務省の帰国勧告を無視し、他の者が快方に向かったのを確認した7月30日に帰国した。

1カ月の延長期間に北里は重病人の看病、論文執筆、香港の衛生改善調査をした。

7月8日、高木友枝が香港に到着すると、衛生学的調査に一層尽力した。北里は27枚の独語論文を執筆し塗抹とまつ標本と菌株を添えコッホ研究所に送ったが、未発表に終わる。

7月7日にはラウソン医師にドイツ語論文を英訳してもらい、英国の権威ある医学誌にレター形式で速報を送っていた。

ペスト菌発見の論文は「ランセット」8月25日号に掲載されたが、北里はグラム染色に関する記載をせず、予報で時にグラム陽性、時にグラム陰性とし、後日確報を送ると書いた。だが北里は本論文を執筆しなかった。

その一方で、「ペスト病の原因調査第一報告」を邦文で7月15日に送りペスト菌発見の報告をしたが、なぜかグラム陽性と記載してしまったのだ。

グラム染色とは細菌の基本染色法で、ゲンチアナ紫で染色し純アルコールで脱色し、最後にフクシンで染色する。アルコールで脱色されなければ濃紫色のグラム陽性で、脱色されればフクシンで赤く染まるグラム陰性である。

正しくペスト菌を発見していたのに報告書で間違えた北里

北里は、グラム陽性とグラム陰性の2種を確認していた。北里菌はグラム陽性とし、グラム陰性のエルサン菌と違うと主張した。だがそれは誤りだった。だが北里がドイツ語論文と共にコッホ研究所に送った標本には真性ペストと混合感染の検体があった。

香港で分離した菌に肺炎球菌が混じ、帰国の継代中に繁殖した可能性が考えられる。

つまり北里は正しくペスト菌を発見していたのである。エルサンも、ペスト菌は血中に観察されないという間違いを犯している。ただし北里はその後もグラム陽性菌を北里菌だと言い張り続けたため、世紀の大発見を自分で台無しにしてしまったのだ。

海堂尊『よみがえる天才7 北里柴三郎』(ちくまプリマー新書)
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北里はこの時、ペスト菌の抵抗性を詳細に調べ、死滅条件を学術的に調査している。

北里が帰国した翌々日の8月1日、北里を囲み森鷗外、小金井良精、賀古鶴所、入沢達吉の5名で上野の料亭「伊予紋」で会合を持った。青山の容体を詳しく聞くためだ。

その日、日本中は大騒ぎになった。日本が清国に宣戦布告したのだ。

8月8日、北里は「中央医学会」で「ペスト調査報告と検疫の建議」をし、午後に、「東京医学会」主催の講演会が医科大学の生理学教室で開催された。満堂を圧した熱弁を聞いて、後の北里四天王の北島多一と志賀潔が伝研入りを決意した。

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