帝大チームは解剖道具などの準備が不十分、手袋なしで遺体を解剖

真夏の香港、締め切った部屋での作業は汗だくになる。初日に1体の解剖を実施した青山の元に次から次へと遺体が運び込まれた。タールで悪臭をごまかし、ゴム手袋がないので傷口保護材のコロジウムを塗り、塩化第二水銀を希釈して作成した昇汞水しょうこうすいで消毒した。不潔な環境では感染しかねない。

19世紀の香港
写真=iStock.com/ilbusca
19世紀の香港(※写真はイメージです)

解剖用具を一式しか持ってこなかったのは、明らかに準備不足の大失態だった。

北里の方は消毒釜や硝子器具、培地などを日本から持参し、準備は万全だった。

6月15日、日本隊の調査開始の2日後、パスツール研究所のエルサン調査隊が香港入りした。こうなればコッホの名にかけても、後塵を拝するわけにいかない。

北里はエルサンに解剖許可を与えないよう病院責任者を買収させたが、エルサンは香港島政府に訴え、その不当な干渉を退けた。

こうした仁義なき前哨戦を経て、正々堂々のペスト菌発見の先陣争いが始まった。

準備万端だった北里は患者の家に多いネズミからペスト菌を検出

6月18日、北里はヒトとマウスの牌臓ひぞう、リンパ節、血液から同一細菌の純粋培養に成功した。ペスト菌は通常の培地で生育し確認は容易だった。彼はペスト患者の血液をマウスに接種し感染を確認し、死骸から同様の短梓菌たんかんきんを確認した。

翌6月19日、調査開始5日で、解剖体の5臓器と重症患者30名の血液を調べ全例から同様の短梓菌を検出した北里は内務省に「黒死病の病原を発見せり」と打電した。

32歳のエルサンもほぼ同時の20日に発見し、ペスト菌発見の栄誉は、コッホの弟子の北里とパスツール門下生のエルサンが仲良く分け合った。

北里は、患者の家にネズミの死骸が多いと気づき、ネズミの血液からペスト菌を検出した。同時にペスト菌の抵抗性検査に着手し乾燥、日光曝露ばくろ、高温などペスト菌死滅条件を調べた。ベルリンのコッホ研でコレラ菌とチフス菌の抵抗性を調べた経験が活きたのだ。

6月28日までの15日間に北里は解剖18例と重症患者50名の血液検査で、その9割から短梓菌を検出した。

青山は2週間で19体を解剖し、45名の患者の診察をし、6月26日に最後の解剖をした。解剖には石神が立ち会い、香港で開業していた中原富三郎医師が手伝った。28日に香港政庁や領事館の人々を香港ホテルに招き感謝の晩餐会を開いたが、晩餐会後、青山と石神、中原は40度の熱を出し腋窩えきかリンパ節が腫れ、英国病院船に入院した。

石神は錯乱し、青山の症状も重篤で、中原医師は7月4日に死亡した。

6月30日、青山と石神が人事不省になったと北里が内務省に打電すると、福沢諭吉は、北里を直ちに帰国させるよう内務省に要請し、「時事新報」で報じた。

細菌発見史
よみがえる天才7 北里柴三郎』より編集部作成