豊臣家を滅ぼすことが目的だったのか

最後に大坂夏の陣に際して、家康は豊臣家を滅ぼすつもりであったのかを考え、本稿のまとめに代えたい。

従来、家康は能動的に豊臣家を滅ぼしたと考えられてきた。しかし近年、家康が豊臣家と折衝を繰り返していることから、滅ぼすことが規定路線ではなかったとの説が出されている(丸島:二〇一五など)。

この点については筆者も、家康は豊臣家を滅ぼす気はなかったと考える。

渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)

そもそも、家康は豊臣方に無理な要求はしていない。牢人の召し放ちと、淀殿を人質として江戸に差し置くこと、ないし転封を受け入れることという条件は、決して厳しい条件ではない。

慶長4年(1599)に家康暗殺を疑われた前田利長が家康に実母芳春院を人質として江戸に差し出しているように、母を人質として差し出すよう要求することは当時当たり前に行われた。

所領についても秀頼の望む場所への転封を約束しており、最大限譲歩している。

さらに、大坂落城段階で千姫を通じた秀頼らへの助命も受け入れている(秀忠が拒否したため実現はしなかったが)。

織田信雄になることもあり得た

これらを踏まえるならば、家康は明らかに豊臣家を滅ぼすことを避けようとしている。先にも言及したように、家康にとって秀頼が、秀吉に臣従した織田信雄のように臣従を受け入れたならば充分だったに違いない。

しかし、秀頼は家康からの提案の全てを拒絶したのである。家康が豊臣家を滅ぼすことになったのは、ひとえに秀頼の判断ミスと見なすべきであろう。

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