アメリカからヨーロッパへと浸透
GMが株式運用を主体とした企業年金基金を創設したタイミングは、まさにアメリカで株価が上がっていくタイミングだった。GMの企業年金基金が成功しているという話を聞きつけた他の企業も、同様の企業年金基金の創設に動いた(*10)。
アメリカでは州政府や地方政府の公務員が加盟する公務員年金基金も1930年代に設立されているが、当初は債券での運用しか認められていなかった。しかし戦後に入り、株式投資を認める動きが広がる。例えば、全米最大の公務員年金基金であるカリフォルニア州のカルパースは、1968年に運用資産の25%を上限に株式での投資運用を容認。そして1984年に25%の上限をも撤廃している。
戦後、ヨーロッパも同じ路線をたどった。例えばイギリスでは、世界恐慌後の1920年代に職域年金保険(業界毎の年金基金)制度が誕生し、浸透していく。職域年金の加入率は1933年には13%だったが、1956年には33%に、1960年代には40%を超えた(*11)。
公的年金制度は、1946年に国民保険法が成立し、イギリス国内に居住する全ての人を対象に、最低限の給付を行う制度として創設された。ドイツやフランスでも基本的には同じような流れとなった。
日本では1950年代に企業年金制度が普及
日本でも同じだ。日本で義務的公的年金制度が導入されたのは、戦時下の1937年に成立した「退職積立金制度及び退職手当法」が最初だった。50人以上の従業員を有する事業者が対象となった。
企業年金では、GMの成功事例を知った十條製紙(当時)や三菱電機が1952年に企業年金制度を創設。まだ税制優遇がない時代だったが、1950年代には日本でも企業年金制度が広がりをみせた。
1957年には、倒産隔離(企業が倒産しても、保有している資産に影響を与えないようにすること)のため信託銀行で年金資金を積み立てる外部積立方式を、興国人絹パルプ(当時)や品川白煉瓦が(当時)が開始。こうして健全な企業年金の仕組みが主体的に考案されていった。1960年時点で企業年金制度を設けた企業は210社もあったという(*12)。
そして戦後の先進国では、公的年金や企業年金だけでなく、個人毎の年金制度も政府主導で作られていった。背景には政府財政において社会保障予算負担が増していく中、少しでも個々人での年金資産形成を促したいという事情があった。企業年金側でも、企業年金基金自身が資産運用をする確定給付(DB)型から、個々人の責任で運用方法を選択する確定拠出(DC)型に移ってきている。
(*10)GMは2009年に一度経営破綻しているが、その主要因の1つが、このときに締結した企業年金の支払負担だったことはよく知られている。
(*11)斉藤美彦(1997)“イギリス年金制度の歴史的展開と近年の改革の流れ”海外社会保障情報119号
(*12)山口修(2018)“企業年金制度の沿革、現状と今後の展望”横浜経営研究38巻第3・4号