それが、彼女の後継者であるチャールズ皇太子(1948~)がダイアナ妃(1961~1997)と離婚した翌年、1997年9月に起きた「ダイアナ事件」であろう。
8月31日にパリでの交通事故により突然の死を迎えた彼女に、その年に首相に就任したばかりの労働党政権のトニー・ブレア(1953~)が「彼女は民衆の皇太子妃(People's Princess)であった」と即座に追悼の姿勢を示したのに対し、ロンドンから北に800キロも離れたスコットランドのバルモラル城で静養中だった女王は、ダイアナが王室を離れたことを理由に、国民に哀悼の意を示すことはなかった。
それは当時の国民(特に大衆)の感情とは大きくかけ離れた行為であった。側近たちからの要請でロンドンに戻った女王は、事態の重大さに気づき、その後はダイアナに対し最大限の弔意を示すことで、事態は一応は収まった。
開かれた王室への前進
この「ダイアナ事件」をめぐる一連の騒動には、1997年当時のイギリス社会の様々な問題が隠されていよう。サッチャー保守党政権時代に奨励された「自由競争」の原理により、国民の間で王室や貴族など上流階級に対する「恭順」という感覚が急激に衰弱したこと。
さらに同じくサッチャー主義によって、国民の間に経済的格差が広がり、特に下層階級(「置き去りにされた人々」と呼ばれる)の間ではダイアナに対する「自己投影(ダイアナも自分も弱者である)」が強まり、それが宮殿前に数万人以上が集まり花束がうずたかく積まれるという光景につながった。
それまで王室は国民から支持を集めていると信じて疑わなかったエリザベス2世は、こうした新たな状況にはついていけていなかったのであろう。
これ以後、王室はホームページや最新の通信手段を利用して、広報活動に邁進した。その成果もあってか、ヴィクトリア女王以来となる「在位60周年記念式典(Diamond Jubilee:2012年)」や「女王の90歳誕生日(2016年)」の頃までには、王室と国民が一体となってこの慶賀を盛大に祝うようになった。