※本稿は、関裕二『女系で読み解く天皇の古代史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
父・聖武天皇の遺志を継承しようとした女帝・孝謙(称徳)天皇
孝謙が恵美押勝と激しく戦ったのはなぜだろう。ここに至るまでの理由は、確かにあった。聖武天皇から皇位を譲られた孝謙天皇は、即位当初、藤原仲麻呂に従う振りをしていたが、次第にコントロールが利かなくなっていった。
だから藤原仲麻呂は、大炊王を自身の家で息子のように養い、即位させた。このとき、孝謙天皇は「承塵の帳に浮き上がった瑞字」という茶番につき合ったのだ。心の奥底に、藤原仲麻呂に対する怨みは募っていっただろう。
これまでの史学界の通説は、光明子が藤原不比等の娘で、孝謙天皇は藤原不比等の孫と決め付けていた(系譜上はそうなのだが)。しかし、もっと違う視点が求められている。
一方で、孝謙天皇は天武系の聖武天皇の娘であり、県犬養三千代の孫でもある。県犬養三千代の初婚の相手は美努王で、親天武派の皇族だったことは、すでに触れてある。
藤原仲麻呂は、藤原の娘だったはずの孝謙天皇が、本当は天武の娘なのかもしれないと、疑いつつ「やはり天武派」と気づいた瞬間、大炊王擁立を決め、孝謙天皇に、あえて「瑞字出現」の「踏み絵」を用意したのだろう。
話は少しさかのぼる。孝謙天皇が即位して最初の行幸地に選んだのは、河内国大県郡(大阪府柏原市と八尾市の一部)の智識寺だった。かつて、聖武天皇がここを訪ね、感動し、同じような寺を造ってみたいと夢を見て、光明子が背中を押した、聖武一家にとってなじみ深い寺だった。
智識寺とは、有志が集まって、財や労働力を持ちより建てた寺のことで、皇族や貴族の寺とは一線を画した。じつは、東大寺は、巨大な智識寺でもある。
女帝の前に立ちはだかった大貴族・藤原氏
孝謙天皇が即位後すぐに智識寺を訪ねたことは、大きなメッセージになっただろう。
知識集団と縁の深かった行基は、私度僧(朝廷の許しを得ず僧の格好をし、律令の枠からはずれ、放浪し、定住しない乞食坊主でもある)や優婆塞・優婆夷(在俗の仏教徒)を束ね、藤原政権から疎まれ、弾圧されていた人びとだ。
※編集部註:初出時、「智識寺建立を指揮していた行基は」