その僧俗混合の寺(智識寺)のあり方に聖武天皇は心打たれたのだ。孝謙天皇は、聖武天皇の遺志を継承しようと考えたのだろう。

橘奈良麻呂の変(七五七)のときも、光明子と孝謙天皇は、謀反の密告を受けて捕縛された首謀者たちを、「あなたたちは身内だから、そんなことをするはずがない」と、一度釈放してしまっている。

あわてて、藤原仲麻呂が捕まえ直して拷問にかけ、多くの人びとをひそかに殺してしまったのだ。橘奈良麻呂は県犬養三千代の孫だから、光明子と孝謙は、縄を解いたのだろう。彼女たちは、藤原氏のやり方に批判的だったに違いない。しかし、藤原仲麻呂の圧力に、屈したわけだ。

藤原氏は恐ろしい人たちだ。「言うことを聞かぬ者は皇族といえども排除する(殺す)」のであり、「天皇も例外ではない」のだ。これをよく知っていた孝謙天皇は、大炊王立太子に協力してみせたのだろう。もちろん、屈辱的なことだ。

宇佐神宮本殿
宇佐神宮本殿(写真=sk01/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

太上天皇になった孝謙は、道鏡とねんごろになっていった。そして、淳仁天皇がこれを批難し、両者は険悪な状態に陥っていたのだ。

女帝と僧侶のスキャンダル…「道鏡事件」とは何だったのか

道鏡は何者なのだろう。『続日本紀』に、道鏡の俗姓は弓削連とある。弓削氏は河内に勢力を張っていた一族だ。

道鏡は禅行を積み梵文(サンスクリット語)に通じ、学僧として出世し、看病禅師として宮中に招かれた。道鏡に出会ったとき孝謙太上天皇は、四十四歳で、道鏡の献身的な姿勢に、心を打たれたのだろう。

恵美押勝(藤原仲麻呂)を滅亡に追い込み重祚ちょうそした称徳天皇は、道鏡を太政大臣禅師という役職に就けた。律令の規定にない臨時職(令外官)で、実質的な最高権力者だ。しかも、「法皇」の称号を与え、天皇に準ずる扱いにした。天皇儀礼のもっとも大切な大嘗祭に、僧侶の参加を許しもした。

道鏡の一族も政界に入り、道鏡はひとり勝ちしていったのだった。そして、神護景雲三年に、宇佐八幡宮神託事件が勃発したのだ。「道鏡をして皇位に就かしめば、天下太平ならむ」と、神託が都にもたらされたが、最終的には、道鏡の即位は阻止されたのである。

この事件は何を意味しているのか。独身女帝・称徳天皇が、羽目を外してしまったということだろうか。後世には、男女の醜聞(スキャンダル)となって語り継がれることになる。

八世紀末から九世紀初頭に薬師寺の僧・景戒が記した仏教説話集『日本霊異記』に、次の話が載る。

称徳天皇の御代、天平神護元年(七六五)に、弓削の氏の僧道鏡法師は、皇后と同じ枕に通い(同衾し)、天下の政の実権を握って、治めた……。