勝浦令子は『孝謙・称徳天皇』(ミネルヴァ書房)の中で、称徳天皇が『最勝王経』に強い影響を受けていたのではないかと推理した。その国王論に、次の一節が載る。

すなわち、四天王が梵天に「なぜ人間の中でひとりの王(天子)が立つのか、天界においてなぜ天王となれるのか」を問いただした。すると、王に立つ条件は、「前世の積善」と「諸天の加護」のふたつだという。

「藤原の呪縛から王家と民を解放したい」

その上で、勝浦令子は、称徳天皇が、この教えのままに天皇像を構築したのではないかと推理し、次のように述べている。

皇位継承者の使命を、「天」の授けた者、すなわち前世の積善や天の加護を受けて転生した人物に託すべきであると考えた(中略)藤原氏系の天智・天武合体草壁皇統を血筋として引き継ぐ者がいない現実の中で、次第に天の加護を受けた人物、さらに出家者による継承を模索し始めた可能性が高い。つまり、「尼天皇と僧法王の共同統治体制を現実化していった」と言うのである(前掲書)。

なるほど、かつてなかった発想で称徳天皇の生涯を語っている。そして、仏教徒という視点で謎めく称徳天皇の行動を解き明かしたことは、共感できる。

称徳天皇がそれまでの秩序を破壊しようとしていたことも、確かなことだ。たとえば、身分の低い者に、高い位の「カバネ(姓)」を濫発し、奴婢ぬひを解放してもいる。称徳天皇は、「藤原の呪縛から王家と民を解放したい」という一心ではなかったか。

自身の体の中に藤原の血は入っているが、母・光明子と同じように、藤原不比等を呪っただろうし、藤原氏が多くの皇族や貴族をあやめてきたこと、さらに、恵美押勝(藤原仲麻呂)に至っては、専横をくり広げ、一家だけで権力を独占してしまった。

称徳天皇は「こんな世の中にするために、王位を継承したわけではない」と、叫びたかったのだろう。だから、諸天の加護を受けて王位に就いた責任を、自覚していた可能性は、非常に高い。

ただし、称徳天皇には、もうひとつ、世直しの策を秘めていたのだと思う。それが、ヤマトの王家の再出発であり、原点に戻る運動でもあったと思う。

藤原氏に一泡吹かせたが、抵抗により計画は頓挫

恵美押勝(藤原仲麻呂)は恵美押勝の乱の直前、孝謙太上天皇が道鏡を寵愛する様を見て、次のように語っていたという(『続日本紀』)。

此の禅師の昼夜朝庭みかどを護り仕へたてまつるを見るに、先祖とほつおや大臣おほまへつきみとして仕へ奉りし位名くらいなを継がむとおもひてる人なり。

道鏡の朝廷に仕えている様子を見ると、先祖の大臣として仕えていた過去の一族の栄光を復興しようと企んでいるのだ。だから、排斥してしまえ、というのである。