最近の海外ドラマなどを観ていると、「ゲイ」も「バイ」も「トランス」も、私の知らない間にすっかり日常的な存在になりつつあることを痛感させられます。むしろ、私のように自分で自分を「オカマ」だ「女装」だと呼び、一般世間に対して「自虐」という名の防御線を張ることの方が古臭い印象すらあります。
これまでの同性愛者をはじめとするマイノリティー差別をなくすという点において、当然この風潮は良い流れと言えるでしょう。一方で、否定された先にある屈折した人格が作り出す不健全な文化の趣というのも、個人的には「捨てがたい」ものであり、それがこの先どんどん少なくなっていくと思うと、どこか一抹の寂しさを覚えます。
今から40年前、まだ私が子供だった頃。「なんとなく」と呼ぶにはすでにしっかりすぎるぐらい確立されていた性に対する自意識は、いわゆる一般や普通とは異なるものでした。私の性格上、そんな自分に思い悩むことはほとんどありませんでしたが、心の隅で「これを一生隠し続けるのは面倒臭そうだな」と途方に暮れていたのは事実です。
そんな時にテレビを通して観ていたのが「おすぎとピーコ」のふたりでした。内股で手首をくねらせながら、女っぽく喋る彼らの姿は、まさに私が普段、親や友達から嘲笑されるそれでした。
「私も大きくなったらこの人たちみたいになるのかな」と思うと同時に、「こんな風になったら親兄弟は良い顔しないんだろうな」と、妙な不安を抱かせる存在。それが「おすぎとピーコ」だったのです。
『笑っていいとも』で、昼間から「電話一本で来てるんだから、私のことは娼婦と呼んで!」とか、「巨峰を口に入れてヴェスパー(高級ブランデー)を飲むの! ぶどう同士で親子丼よ!」とか、「双子はね、後から生まれた方が兄貴なの。だって最初に奥までたどりついたんだから!」とか。子供にはよく分からないことでも、その語感とメロディーが私は大好きでした。