皇室典範に明記されている「大喪の礼」

一方、「大喪の礼」はどうか。もちろん、「国の儀式」として行われる。しかし、今回の安倍氏のケースと比べると、当たり前ながら大きな違いがいくつもある。

まず、法的根拠が誤解の余地なく明確だ。皇室典範第25条に次のような条文がある。

「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」

つまり、天皇が崩御ほうぎょされた時は、必ず「大喪の礼」を行うべきことが明文で規定されているのだ(先頃、施行された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」によって「上皇」も同様とされた)。したがって、その時々の内閣の恣意しい的な判断や政治的な思惑などが介在する余地は、ない。内閣府設置法を根拠とした“どんぶり勘定”的な曖昧さとはまったく違って、透明な運用が確保される。

また、憲法第7条に天皇の「国事行為」を列挙する中に、第10号として「儀式を行うこと」が規定されている。この「儀式」はさまざまなものを含み得るが(例えば、毎年元日に行われている「新年祝賀の儀」など)、皇室典範に明記されている儀式は、「即位の礼」と「大喪の礼」だけだ。それだけ、「大喪の礼」は“国事行為たる儀式”の中でも重い位置付けを与えられていることになる。

「大喪の礼」はなぜ「国の儀式」なのか

さらに、天皇のご葬儀である「大喪の礼」がなぜ「国の儀式」として重大視されるかについて掘り下げると、結局、憲法第1条に行き着く。

よく知られているように、そこには次のように規定している。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は主権の存する日本国民の総意にもとづく」

憲法の条文は改めて言うまでもなく、「事実の記述」ではなく「規範の提示」だ。「……である」ではなく、「……であれ」「……であるべし」ということだ。

つまり憲法は、「天皇」が「日本国」および「日本国民統合」の「象徴」であるべきことを、規範として“要請”していることになる。

誰に要請しているのか。まずは天皇(およびその他の皇室の方々)だろう。天皇(およびその他の皇室の方々)は、「日本国」および「日本国民統合」の「象徴」(およびそのご近親)たるにふさわしく振る舞っていただかなければならない。