母親のヒステリックと父親の失踪

ヒステリックな母親の暴力は、気に入らないことをすれば、兄にも同様に振るわれた。暴力は、3歳頃から始まり、その場に居合わせた人が思わず止めに入るほど激しかった。

一度逆鱗に触れると、母親は半日以上は怒鳴る・殴るを続けた。特にひどいときは、「さっき私が言ったことをもう一度言ってみろ!」「声が小さい!」「『うん』じゃなくて『はい』だろ!」「そういえばこの間も……」と次々と話題が移りながら、何日間も怒鳴られ、叩かれ続けた。

風呂場で暴力をふるわれることが多かったのには理由がある。個室であるため、逃げ道を塞ぐことができ、声も遮断できる。また濡れた手だと痛みが増す。黒島さんが小学校に上る前のある日、「あんたを怒っている私の声が外まで聞こえてたって同僚に言われたよ!」と言うので、黒島さんは一瞬、「暴力を止めてくれる人が現れた! これで解放される!」と期待したにもかかわらず、「あんたが悪い子だってみ~んな知ってんのよ!アハハハ!」と高らかに笑われ、「絶望した記憶が忘れられない」と話す。

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「母の暴言のバリエーションにはいくつかありました。『頭おかしいんじゃないの?/生意気だ!/ガキのくせに!/ふざけるな!/私をバカにしてるだろ?』……。叩かれるのは、頭、顔、太ももが多かったですが、防御のためにうずくまると、髪をつかんで上を向かせられます。振りかぶって、フルスイングで平手や拳が飛んでくるので、母の指が目をかすめたり、叩かれた後、クラクラして倒れ込んだりしました。兄のメガネが吹っ飛び、破壊されたこともありました」

家の中では唯一、父親は止めに入ってくれたが、祖父母は、「叩かれないよう、お利口さんにしなさい」と言うだけだった。

さらに母親は、暇さえあれば父親の一挙手一投足に文句をつけ、その母親の悪態に黒島さん兄妹は、「そーだそーだ!」と同調しなければならなかった。父親が遊んでくれたときは必ず、「つまんなかった」など何かしら文句を言わなければ、母親のイライラの矛先が自分に向くため、黒島さん兄妹は必死に父親に対する悪口を絞り出した。

「母と私たち兄妹は、イジメの主犯格と取り巻きのような状態です。母が『お父さんとお母さん、どっちが好き?』と問いかければ、『お父さん嫌い!お母さんのほうが好き!』と、父の前で笑顔で言わされ、とてもつらかったです」

黒島さんが小4、兄が小6になったある日、52歳の父親は「出張に行く」と言ってボストンバッグ1つを手に、いつものように家を出た。しかしこの日が黒島さんたちが父親の姿を見た最後となる。数日後に離婚届が郵送されてくると、46歳の母親は泣き崩れた。

「当時小4だった私は、事態が飲み込めず『そのうちお土産をいっぱい持って帰ってくる』なんて楽観的に考えていましたが、兄は私に『今後お父さんの話は禁止だ』と釘を刺しました。父は、“婿養子で義両親と同居”という肩身の狭さと、母のヒステリーに耐えられず浮気し、そのまま駆け落ちしたようです」

祖父母は内心穏やかでないはずだが、平静を装っていた。母親は、父親の友人関係を把握しておらず、父親がどこへ行ったのか全く見当がつかないようだったが、後に、母方の親戚が父親について、「あんなに優しい人はいない。逃げ出して当然の扱いだった」と言うくらい母親の父親に対する仕打ちは凄まじかったため、母親自身も自責の念があったのか、捜索願いは出さなかった。

しばらくして母親は、「もうお父さんは帰ってこないよ」と言って泣いた。黒島さんは子供心に、「あんなに酷いことをしていたのに、今さらなぜ悲しむんだろう?」と疑問に思った。

父親の失踪発覚後、母親の暴力やヒステリーは一層ひどくなった。