「死者へのデリカシーがない」若者が抱く違和感の正体
「報道すべきでなかった」以外の回答を選択した学生たちも、今回の「手紙」の報道に対しては“違和感”があるというのが大半の意見だった。ましてや手紙文を本人ではない、第三者であるアナウンサーが感情移入たっぷりに盛り上げて伝えていたことには「報道すべきだった」と回答した学生の中にも“違和感”があったと話す学生がいた。
その中の1人、4年生のEさんとの会話である。
【筆者】もう亡くなっているので死者にプライバシーはないというのが法律の考え方だ。法律上は問題ないのに報道機関が手紙を公開することはいけないのだろうか?
【Eさん】プロポーズの言葉は極めて個人的なもの。恋人にこそ伝えるべき言葉。たとえ亡くなってしまったとしても、伝えたかった愛する人に自分の声で届けるのではなく、他人によって読み上げられるなんて、もし自分が当人だったらと思うと、とても耐えられない。死んだ人のプライバシーに対してメディアはもっとデリカシーを働かせるべきではないでしょうか。
死者であってもその「プライバシー」を尊重すべきだと主張するのはEさんだけではない。個々の人間が持っているプライバシーは、たとえ死後も本人の意思に反するかたちで公開されるべきではない、という感じ方だ。すでに亡くなっている以上、本人の意思に反しているかどうかさえ確かめようがないケースが多いのだが、Z世代はとりわけ「個人」の心の中を本人の承諾なく明かすことに対して抵抗感が強い。
こうした感覚は、読み上げる人の選定も含めて死者への「リスペクト」や「デリカシー」がなかったということに尽きるのだと思う。
アナウンサーの涙で、故人の言葉が「消費」の対象に
学生たちの違和感の理由について聞いていると、プロポーズの手紙を赤の他人であるアナウンサーらの声で読み上げることへの違和感が特に強かった。
確かに筆者自身も「めざまし8」での永島アナの感情移入しすぎの読み上げ方を聞いて、「アナウンサーというプロの職業人としていかがなものか」と感じたし、「アナが泣くこと」でそのアナウンサーの自己憐憫のために死者が消費されてしまっているような違和感を持った。
安易な感情移入は死者を冒瀆しているようにさえ見えてしまう。書いた本人がもう読み上げることができない文章を死者に成り代わって、局アナなどの他人が読み上げることの空々しさ、薄っぺらさ、傲慢さ、違和感……。
心を込めて書いた文章であればあるほど、そんなことを他人であるメディア関係者が行ってもいいのかと鋭敏な若者たちが感じるのもわかる気がする。ましてや純粋なプロポーズの言葉が「消費」の対象になってしまうことで誹謗中傷などの標的になりかねないことも若者たちは痛感している。
学生たちの反応では、手紙文を掲載した新聞の報道に対する違和感はあまりなかったが、やはりテレビで「読み上げた」ことに対する違和感は大きい印象だった。