「天皇」への直訴
本山は当時、「キリンの天皇」と呼ばれていた男である。
「社長、実は申し上げたいことがあります」
「そうか。では、二人だけで話そう」
そう言うと本山は踵を返して出て行き、やはり背が高くスリムな前田があとに続いた。
「キリンは会議の多い会社」(89年当時の役員談)だったが、この時二人は、空いている部屋で立ち話をしたようだ。
直前に舟渡の「直談判」を止めた前田だったが、期せずして自身が経営トップに直談判することになった。
1925年8月生まれの本山は、この時64歳。ただ、戦争中に、陸軍士官学校で軍事教育を受けていて、柔道で鍛え上げられた体つきで、いつも背筋がピンと伸びていた。
本山と前田には以前から個人的な関係があった。前田の結婚式で仲人を務めたのは、何を隠そう本山である。本山が大阪支店長だった時、総務部に勤めていた前田の妻、泰子が本山の秘書役を担っていた。本山は泰子に「優秀な男と結婚したな」と言って目を細めたという。当時、前田自身も大阪支店に在籍していた。つまり、創設されるマーケ部に、前田を推挙したのは本山だったのだ。
ただ前田は「一番搾り」の開発にあたって、本山との個人的なつながりを利用してはいなかった。
この「直談判」の場でも、純粋に商品としてどうすれば売れるか、という話をした。前田も、そして本山も、会社の命運を左右する局面に、「私的な事情」を持ち込むような人間ではなかった。
開発責任者として「通常価格でなければ、スーパードライを止められません」と、前田はあくまで冷静に訴えた。ただし原価が高い商品は、その分を価格に転嫁しなければ損益分岐点が上昇する。そうなると、より大量に販売しなければならない。
逆に言えば、数を売れば、多少原価が高くても採算は取れる。一方で思うように売れず、空振りだった場合、ダメージが大きくなる。
つまり、値上げせず通常価格で売るのは「危険な賭け」だった。
「すべての責任は、私が取ります」
前田は本山の前でそう断言した。ただ、当時39歳の前田に全責任を取れるはずもない。前田はこの時、「キリンの天皇」の前で、自分の覚悟のほどを示したのだった。
却下されたプレミアム案
二人が話し合っている間、待ち受けるマーケティング部第6チームのフロアに、じりじりした空気が流れる。前田を待つ舟渡たちには、1秒が1時間のようにも感じられていた。
だが実際には10分も経っていなかった。
やがてドアが開き、いつものニヤニヤ笑いを浮かべた前田が入ってくると、いつになく張りのある声で次のように言った。
「通常価格で行くことになった。プレミアム案は却下だ」
それを聞いた舟渡は思わず小躍りした。
数日後、本山は再び経営会議を招集すると、みずから議長役を務めてこう発言した。
「新商品の目的はスーパードライを止めることだ。だから通常価格で売ろうと思う。君たちはどう思うか」
どう思うかと聞かれても、「キリンの天皇」に面と向かって反対する者はいない。
この会議には企画畑のドンで、「キリン・オーガスト」開発を画策した「キリンのラスプーチン」も出席していた。彼もまたほかの役員と同じく沈黙を守った。
静寂が議場を包み込んだのを確認すると、本山は言った。
「では、通常価格で決定する」
経営会議が終わり役員会議室を出ようとする本山に、前田は起立して深々と頭を下げた。
前田もこの経営会議に末席で出席していたのだった。本山は前田を一顧だにせず、スタスタと通り過ぎていったという。