突然の左遷と社内の権力闘争
「一番搾り」はヒットし、前田ら開発チームは、当時の本山英世社長から社員表彰(社長賞)を受ける。発売翌年の91年6月のことだった。
前田仁は、この時41歳。働き盛りのサラリーマンが手にした栄光だった。
受賞によって、前田仁の名前はキリン社内で有名になっていく。
しかし、当の前田は「一番搾り」発売直後の90年3月末、急に人事異動の対象になり、ビール事業本部マーケティング部第6チームのリーダーから外された。しかも、異動先は経験のないワイン部門だった。
当時、キリンのワイン事業は規模が小さかった。存在感の薄いワイン部門に、花形のビール新商品開発チームのリーダー前田を異動させる人事は、誰の目にも「左遷」とうつった。
なぜ、前田は左遷されたのか。
当時の事情を知るキリン関係者は、次のように語る。
「社内コンペで前田に敗れた『キリンのラスプーチン』が、前田さんへの嫉妬から人事部を動かし、左遷させたと聞いています」
また別の関係者は、次のように証言する。
「当時、営業部とマーケティング部は険悪な関係だった。そのマーケティング部で頭角を現していた前田さんを、営業部が切ったそうです」
どちらも事情に通じた関係者の証言だが、いずれにしてもはっきりした証拠はない。
ただ、証言からは、キリン社内の権力闘争が見え隠れする。
「人には旬がある」
一方、前田をかばう動きもあったようだ。のちにキリンの役員を務めた別の関係者は、次のように証言する。
「前田さんは当初、ビール事業本部の外部組織である外食事業開発部に異動するはずでした。
『ビアホール・ハートランド』や『DOMA』『シラノ』など、飲食店舗の開設においても前田さんは手腕を発揮していました。ただ、前田さんの才能がもっとも活きるのはマーケティング、それも新商品の開発であるのは明らかです。
しかも、外食事業開発部に異動すれば、マーケティング部のあるビール事業本部から外に出ることになります。その場合、再びマーケティング部に戻るのは難しくなってしまう。
そうなったら、不世出のマーケター前田仁も一巻の終わりです。
前田さんへの処遇に危機感を覚える役員もいました。ビール事業本部の重鎮だったある役員が、前田さんの外食事業開発部への転出を阻止しようとします。その結果、前田さんはビール事業本部内のワイン部門になんとか留まることができた。
こうした攻防が、おそらくは本人も知らないところで繰り広げられていたのです」
前田にとって痛かったのは、後ろ盾の桑原が「ポスト本山」レースから実質的に外れ、力を失っていたことだった。
「人には旬がある」
アサビール社長を務めた樋口廣太郎はよくそう言っていた。
当時の前田はまさに「旬の人」だったが、キリンはその前田を外してしまったのである。さらにその後、子会社へと飛ばされてしまう。
戦後のキリン最大のヒット商品「一番搾り」を開発した前田が、マーケティング部に最年少部長として返り咲き、発泡酒の「淡麗」「淡麗グリーンラベル」、第3のビール「のどごし」、缶チューハイ「氷結」といったヒット商品を連発するのは、もう少し先の話になる。