巨大組織に巣くう魑魅魍魎たち
ただ、悪評を立てられる幹部は、この人物だけではなかった。そこに当時のキリンが抱えていた「闇」がある。
キリン社内では見えない劣化が進んでいた。まるで古い家をシロアリが食い荒らすかのようだった。
「当時のキリン本社には、腹黒い幹部がたくさんいた。まさに魑魅魍魎の巣窟だった。
全盛期しか知らない彼らは、業績の下降局面では役に立たなかった。むしろ保身と権力闘争に明け暮れ、会社の業績に悪影響を及ぼしていた」
「資産家のドラ息子が、財産を食い潰すのを見ているようだった。不思議なことに、そういうドラ息子のほうが出世していた。会社のために一生懸命働く、孝行息子タイプの人材ほど遠ざけられていた」
当時を知る関係者は、こぞってそう証言する。
社内が腐敗していても、業績が安定している間は、問題が露呈しにくい。ただ、その状況を決定的に変えてしまったのが、「スーパードライ」の登場だった。
アサヒの猛追を受け、キリンの屋台骨が揺らぎ始める。こうなると魑魅魍魎たちも黙ってはいられなくなった。ただ彼らにとって会社の利益は二の次。自分の出世と利益の確保こそ、彼らの興味のすべてだった。
彼らには「スーパードライ」のヒットが、むしろ好機にうつる。自分たちのプレゼンスを高めるチャンスだと考えたのである。
企画部とマッキンゼーによるDSBチームは、そうした動きの一例だった。
「アサヒは、そのうち止まる。いずれキリンのシェアももとに戻るだろう。それまでの間に、いかに自分の立場を築けるかが勝負だ」
危機に鈍感な彼らはそう考え、醜い社内政治へと向かっていったのだろう。しかし、キリンのシェアが再び50%を超えることはなかった。
当時のキリン社長はワンマンタイプの本山英世。ワンマン経営者ほど、身の周りに茶坊主を置きたがる傾向がある。本山もまた、学歴は超一流だが、実績のない幹部ばかりを、身辺に置くようになっていた。
その結果、キリンは実力主義から遠ざかり、「君側の奸」がはびこる組織となっていった。
前田仁は、そうしたキリンの現状を深く憂いていた。
背後に「キリンのラスプーチン」がいることを知った前田は、当然面白くなかった。ただ、周囲には気にするそぶりを見せなかったという。
前田はもともと感情を表に出さない男だった。といっても決して無愛想なわけではない。むしろニヤニヤしながら話しかけてくる気さくなタイプだ。
ミーティングは帝国ホテルのスイートルーム
前田のチームには、大きな期待がかかっていた。その分、予算も潤沢に使えたようだ。
「前田さんは帝国ホテルが好きで、ミーティングには帝国ホテルのスイートルームを時々使っていました」
当時を知る関係者はそう証言する。
そのミーティングに集まるのは、キリン社員だけではない。のちに「巨匠」となるアートディレクターの宮田識やデザイナーの佐藤昭夫はじめ、電通のクリエーターやCMプランナー、フリーのアートディレクターなど、常時10人以上参加していたという。
ミーティングで前田は、面白い発言が出るたび、大きめのポストイットにメモして、スイートルームの壁に無造作に貼っていった。
「ミーティングでは広範なジャンルにわたって、さまざまなアイデアが出ます。それを整理して方向性を絞り込んでいくのですが、前田さんはこの作業が上手でした」
舟渡はそうしみじみと語る。
「大型定番商品の開発テーマは、『生ビールの純度・ピュアな美味しさ』でいきます。つまり、ピュアな美味しさに、徹底してこだわるということです」
壁一面のポストイットを見渡すと、前田はメンバーにそう宣言する。