ピンクの象を想像する。奇想天外な発想だ。だが、デカルトにしてみれば、ピンク色を見た経験と、ふつうの象を見た経験を組み合わせたものにすぎないということになる。想像力は無限ではない。既知のものを超える想像はありえない。
感性でもない。感覚によって得る情報は限定的なものだ。そもそも人間には、フクロウほどの視力もなければ、犬ほどの嗅覚もない。
人間にある有限の知性と無限の意欲
知性にも限界がある。無限の世界へと到達する力は、ただ一つ意志の力しかないとデカルトは結論する。確かに、私たちは今よりも多く、今よりも高くと求めつづける。無欲ではいられない。善でありたいという欲もある。つまり、神になりたいという欲が人間を神に近づける。
人間には二つの特性がある。有限の知性と無限の意欲だ。人間には有限(知性)と無限(意志・意欲)が共存している。デカルト主義とは、無限と有限の弁証法なのだ。
有限の知性と無限の意志というあらたな人間像からデカルトを考えると、彼の提唱する思考方法についても納得がいく。特に、自由な哲学という意味において、彼がとても独創的な哲学者であったこともおわかりいただけるだろう。
実際、もし神が人のなかに「生得観念」を授け、人間の多くが良識を得ているとすれば、なぜ私たちはこうもしばしば過ちを犯すのだろうか。それは私たちが自由だからだとデカルトは答える。この自由があるからこそ、わたしたちの意志と知性は必ずしも嚙み合わないのだ。
自由とは知性と意志を調和させること
つまり、わたしたちの意欲が無限なので、私たちはあれもこれも欲しがり、知性が設定した限界を超えることまで言い出してしまう。人が自分の知らないことまでつい口走ってしまうのは、知性が止めるのを聞かず意志が暴走するからだ。意志が理性を超えて決断してしまうのは、自由のせいなのだ。神のせいではない。私たちが過ちを犯すのは、私たちが知性によって限定された世界にとどまっていられないからだ。デカルトの意志についての思想は実に巧妙だ。人は無限の意志をもつゆえに神にも近づけるし、失敗もする。
だが、当然とはいえ、本当の意味での自由とは、知性と意志を調和させて生きることにある。理性に導かれたうえで、意志を貫く。デカルトは理性の仲裁を受け入れ、熟考のうえで選択する力、欲望と距離をおく力を「自由意志」と呼んだ。
ここでも意志の力が重要になる。理性による調整が終わるまで欲望を抑えておく意志が必要なのだ。知性による選択を受け入れる意志も要る。知性と意志がかけ離れたものであることも、その二つのあいだでできるかぎり折り合いをつけることも、実存的な経験なのだ。