われ思う、ゆえにわれあり
真理を説明しようとすると、まず感覚がとらえたことはすべて排除しなければならない。必要なのは、思考、「《精神》による観察」である。何もかも疑ってなお残るのが思考であり、疑うという思考である。
となると、最も確実なものは、疑っている自分である。どんなにすべてを疑っても、自分は今、疑っているのだと考える自分がいる。それだけは確実だ。何もかも疑ったところで、疑っている自分だけは消えない。今、この存在が夢ではないのは、砂漠で渇きのあまり見えてくる幻影よりも現実味があるのは、考える自分があるからだ。
いや、砂漠で渇く人だって、確実なものが一つある。あのオアシスは幻影かもしれない。だが、彼が周囲のすべてを疑いはじめたとき、一つだけ確実に存在するのは、疑っている自分なのだ。デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」はこうして生まれた。
デカルトの徹底した合理性は、この「ゆえに」にある。というのも、多くの人は特に意識することなく、感覚を盲信しがちなのだ。
さらに言うと、この「ゆえに」が大事なのは、思考、そしてその先にある哲学というものが濃厚な実存体験であることを示しているからである。
いや、思考とは存在そのものだと言えるかもしれない。デカルトはキリスト教的な省察の長い伝統を引き継ぐと同時に、古代哲学における精神鍛錬の後継者でもある。省察にしろ、鍛錬にしろ、単なる神学的な思弁を超え、人が自分を鍛え、よりよく生きようとするトレーニングなのだ。デカルトは、現在「デカルト的」と言われているものとは少し違っており、ある意味ではのちの「実存主義」を先取りしている一面もある。
急進的な良識派・デカルト
デカルトの抱える矛盾は、彼の二冊の著書『省察』と『方法序説』の両極端な内容と、その対比によく表れている。まず、すべてを疑い、世界の存在さえ疑念を抱く、急進的な側面があり、もう片方には、現在「デカルト的」とされている慎重で、進歩的な良識ある側面もある。この二つの特性は混じり合うことも少なからずあるのだが、わかりやすくいうと、『省察』のほうが急進派で革命的なデカルト、『方法序説』のほうが慎重で、良識派、伝統を守るデカルトだ。デカルトにとって良識は「世の中で最も広く共有されているもの」であった。