プラットフォームが欲望を画一化している

人と出会ってコミュニケーションすることが新しい発見につながるというのはウソですよ。少なくとも、いまの情報社会は人間同士のコミュニケーションに偏りすぎている。インターネットが普及して四半世紀が経ちましたが、この間で証明されたのは、人間のコミュニケーションには案外多様性がないということでした。

Web2.0なんて言葉もありましたけれど、あれが証明したのはたとえ発信能力を得たとしても、ほとんど人間に発信に値する能力はなく、せいぜいタイムラインの潮目を呼んで「みんな」が叩いているものに石を投げて「共感」し「安心」することくらいだったわけですからね。

僕はSNSのプラットフォームは人間の欲望を、人間同士のコミュニケーションというか、インスタントな承認の交換に限定し、その快楽でユーザーを一種の中毒的な状態にするものだと思っているんです。実際に、FacebookではみんなFacebookっぽい自慢を書くし、Twitterではみんなすぐに誰かを叩きたがる。これって、プラットフォームが社会的身体を画一化してしまっていて、そのためにそこに吐き出されている欲望も画一化しているのだと思うんです。

身体の多様性を生かすために

例えば、『モノノメ #2』に登場してくれた乙武洋匡さんの身体と僕の身体がぜんぜん違うように、人の身体には多様性があります。ところがSNSだと身体の多様性がそぎ落とされて、みんなが画一的な社会的身体になる。僕と乙武さんのFacebookのアカウントの機能はどちらも同じですからね。

そしてSNSのプラットフォームが与える社会的身体の機能は、人間間の承認の交換に特化しているので、ユーザーは相互評価のゲームばかりやって欲望を満たすようになった。こうなると「問題そのもの」はほとんど吟味されなくなりますよね。ある問題があったときに、それをどうすれば解決できるかとか、そもそも問題設定は正しいのかという視点は消え失せて、どう解答すると大喜利的に座布団がもらえるかだけを考えるようになる。そのほうが承認の獲得が簡単ですからね。

こうなると、まずは既に多くの人が話題にしていること以外、話題にするインセンティブが下がるし、その話題に対する態度表明もだいたいYESかNOかの二択になる。国内の政局や言論シーンでもいわゆる第三極的な中立が、実質的に弱いほう、つまり第二極へのダメ出しで集客する方向に流れて、第一極の補完勢力になってしまう現象も、ここに原因があると僕は思っています。

だから、プラットフォームの力に抗うための、人間同士の相互評価のゲームから逃れるための戦略が必要で、僕はそれを人間ではなくて物事を介した、仕事や趣味を介したコミュニケーションに集中して、人間関係そのものを目的にした場からは遠ざかることで実践しているわけです。いまさら「紙の雑誌」を、しかも総合誌をつくっているのも同じ理由です。もちろん紙の雑誌をつくって終わりではありません。それをどうやって有機的な運動にしていくのか、今一生懸命考えているところです。いずれにせよ、人間はもっと人間以外の物事と直接触れ合ったほうがいいと思っています。

提供=PLANETS
[鼎談]思想としての義肢──OTOTAKE PROJECTの豊かな副産物について|遠藤謙×落合陽一×乙武洋匡:「五体不満足」な身体をロボット義足によって歩かせるという実験的プロジェクトをめぐって、たくさんの知見を創発したクリエイター陣の回顧録。

(構成=村上敬) 

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