評論家の宇野常寛さんは、学生時代、走ることが大嫌いだった。だが、今は人生の最大の楽しみのひとつになっているという。いったいなにがあったのか。宇野さんの著書『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)より紹介する――。
体育が嫌いだった僕が走ることにハマった理由
10代のころは、身体を動かすことが基本的に嫌いで、特に走ることが大嫌いだった。運動やスポーツが好きな人たちの中でさえも、ただ「走る」ことが好きな人はそれほど多くないように思う。
体育の授業や部活動の中でもたいてい「走る」ことは体力づくりのためにすることで、高度な技術を身につける下準備として苦痛を我慢して行うものだと考えられていることが多い。そして「走る」ことそのものが求められる陸上競技でも、つらく、苦しいことを我慢して走り切るとタイムが縮み、競技に勝つことができると教えられるはずだ。
そのために「走る」ことには、つねに根性や忍耐が求められている。これでは「走る」こと自体が好きになるなんてことは、本当に難しいことだと思う。
そもそも僕は子どものころは喘息もちで身体が弱かったこともあって、運動することそのものが苦手だった。だから、体育の授業は苦痛以外の何ものでもなかった。体育の授業のある日はそれが理由で学校に行きたくないと心から思っていたし、中学校の後半からは単純にサボるようになってしまった。
高校では、ますます体育の授業には身が入らなくなった。いまでも覚えているのだけど、卒業間近のある日、体育を担当していた林先生が僕のそばに寄ってきて、こう言った。「自分はもうすぐ定年退職だ。35年以上の教師生活で心残りがあるとしたら、宇野の体育の授業を3年間担当して、ついに一度も身体を動かす楽しさを教えることができなかったことだ」と。
そんな僕が、いまは走ることが人生の最大の楽しみのひとつになっているのだから自分でも驚いている。では、どうしてこんなに体育が嫌いだった僕が「走る」ことにハマってしまったのだろうか。