体育は歯車のような人間を量産する

僕が「体育」嫌いだったことはすでに書いたけれど、僕はこのとき、なぜ自分はあれほどまでに「体育」が嫌いだったのか、その理由をはじめて考えた。そして、いろいろと調べていくうちに、日本的な「体育」というものが、実は現在のスポーツ研究の世界の中において、よく批判されていることを知った。

日本的な「体育」の、ひたすら苦痛を我慢して目標を成し遂げることをいいことだとする考え方や、集団に合わせる訓練を重視するやり方は、現代的な「スポーツ」研究の世界では否定されることが多い。

この日本的な「体育」は、たとえば工場や戦場などで支配者が扱いやすいネジや歯車のような人間を量産することには向いていても、それぞれの個人がもつ個性や潜在的な身体能力を解放し、引き上げるためには効果的ではないからだ。

だから僕は、東京オリンピックを通じてこの国の「運動する」文化を、「体育」ではなく「スポーツ」へとアップデートする機会にしようと考えたのだ。そうしてできあがった1冊を読んだことが、上田さんが僕のところに取材に来たもうひとつの理由だった。

彼は、僕と仲間たちが考えたあたらしいオリンピックの企画案に、「競技スポーツ」ではない「ライフスタイルスポーツ」としてのランニングの楽しさに近いものを感じたのだと話してくれたのだった。

朝階段を駆け上がる男
写真=iStock.com/xijian
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再び走り始めて気付いたこと

そして僕はこの取材をきっかけに、もう一度走ってみようと考え始めた。ダイエットをがんばっていたころ、僕は「痩せる」という目的のために苦痛を我慢して走っていた。そうではなくて、今度は好きなように走ってみようと思ったのだ。

小学校に上がる前、近所の道路や公園を何も考えず、好きなように走ることが楽しかったように、「目的」なんかないほうが、走ることそれ自体の楽しさに純粋に触れることができるんじゃないか、と考えたのだ。

こうして僕は再び走り始めた。今度は何かのためじゃなくて、走ることそのものを目的に走ってみた。タイムも距離も、気にしないことにした。疲れたら歩くし、のどが渇かわいたらコンビニエンスストアで水を買うし、やめたいときにやめると決めて走り出した。

最初は朝に、近所の公園を走ってみた。びっくりするくらい、気持ちよかった。僕が住んでいるのは東京のどちらかと言えば街中なのだけれど、朝の空気は澄んでいて、公園の緑の中を走り抜けるだけで、気持ちよく汗がかけた。僕はこのとき30代も半ばになっていたけれど、はじめて身体を動かすことそれ自体が、心から気持ちいいと思えた。

このとき僕は、自分が嫌いだったのは、「みんな」に合わせ、「敵」に勝つために、あるいは何か「目的」を果たすために苦痛を我慢する「体育」であって、決して身体を動かすことそのものではなかったのだ、とはじめて気づいた。こうして、僕はたちまち「(ライフスタイル)スポーツ」として身体を動かすことに夢中になっていった。もう、ご褒美のミニカーは必要なかった。