救急医はみんなせっかちで性に合う

木村は1982年、福岡県で生まれた。父は研究医だったが、自身はテレビドラマ『救命病棟24時』に触発されて、救急医を目指した。

鳥取大学医学部附属病院救命救急センター助教の木村隆誉助氏(撮影=中村 治)

しかし、鳥大医学部に入学後、IVR(Interventional Radiology)に出会って進路に迷う。IVRはカテーテルを用いて治療する低侵襲の治療法である。X線透視やCTの画像を見て行うため、放射線科の領域とされる。

木村は救急医療に後ろ髪を引かれながらも、「カテーテルで命を救う治療がしたい」と放射線科へ。医師3年目からは東京の病院で放射線科医として腕を磨いた。

転機は妻の出産だった。東京の勤務先は激務で、育児は妻のワンオペ状態に。妻は米子出身で、夫婦には鳥取の穏やかな環境が合う。古巣であるとりだい病院放射線科の前教授から定期的に連絡をもらっていたこともあり、2015年に家族で鳥取に戻った。

放射線科医としてとりだい病院に戻って半年後、憧れの救命救急センターに出向になる。

センターは崩壊の危機に陥った後、センター長の本間正人教授を中心に立て直しを図っていた。木村は半年間の約束で放射線科から派遣された。

「戸惑いと期待が半々でした。ドラマの世界しか知らなかったから、実際はどうなのかという不安が半分。期待のほうは、新しいチャンスかなと。

実はIVRで治療していた病気が薬でも治療できる時代に変わりつつあって、IVRの将来に不安を感じ始めていました。この出向で新しい道が開ける予感がしました」

救急の世界は性に合っていた。

救急では治療の結果がすぐにあらわれる。「救急医はみんなせっかち。やってみたら自分もそうだった」が木村の自己評価だ。

このままセンターに残りたいという本人の強い希望で、出向は1年半に延びた。放射線科医として松江市立病院に赴任した後、2018年、とりだい病院救命救急センターに完全移籍した。

木村は念願の救急医となり、思う存分に腕を揮う——はずだった。しかし、経験を積んで救急医として力をつけるにつれて、壁を感じるようになった。

救えるはずの命を救えない悔しさ

たとえば新型コロナウイルス治療で一躍有名になったECMO(エクモ=体外式膜型人工肺)という医療機器がある。心臓や肺が弱り、人工呼吸器では対応できない患者に使用。救急領域では重要な武器だ。

ところが、とりだい病院では心臓機能を補助するVA ECMOは循環器内科や心臓血管外科、肺機能を補助するVV ECMOは麻酔科の集中治療部が担当することが通例になっており、救急科では使えない。

ECMOを使いたいと木村は要望したが、「救急科の医師に扱えるのか」「医師ができても、看護師が無理だ」と、つれない返事が戻ってきた。

木村が熟練しているIVRも同様だ。

大量出血を伴いやすい骨盤骨折では、画像で血管の出血箇所を把握して止血できるIVRが威力を発揮する。前述のようにIVRは放射線科の領域。

緊急でIVRが必要な患者を放射線科に送っても、丁寧な治療こそ行われるものの、正確性より迅速性を優先する救急の目的が達せられないことがあった。

理想の救急医療を実現するため、その他にもさまざまな提案をした。しかしその多くは夢物語だと笑われて、あきらめざるを得なかったという。

このままでは救えるはずの命を救えなくなる。そうした焦りを感じていたころ、助っ人で来ていた他病院の救命救急センター長から、「うちならECMOを使えるし、木村先生にIVRを全部やってもらいたい」と誘われて心が揺れる。

ただ、家族のことを考えると単身赴任はしたくなかった。迷っているうちに助っ人期間が終わって話は立ち消えになった。

木村は激しく落ち込んだ。

「もういまの場所でできることをやるしかないと気持ちを切り替えたつもりでした。でも、実はその後のことがあまり記憶にない。いま振り返ると、体が動いていても心がそこになかったのかも……」