重要なのは「隷属的な立場」の改善

このたび、日本テレビがADという呼称を廃止して「ヤングディレクター(YD)」に変更すると「東スポweb」が報じた。ネット上では批判の声が多く寄せられていた。

中でも多いのが、「呼び方を変えても実態が変わらなければ全く意味がない」という指摘だろう。確かにその通りだ。呼称として若干ダサいのもあって、私の周りのディレクターやプロデューサーたちも笑い話として雑談のネタにしている感じがある。

しかし、もし日本テレビが「呼び名を変えるだけ」ではなく、実態も変えるのであれば、あながち「YD」は悪くないかもしれないな、と私は思う。

不況でテレビの制作予算が削減される一方な現在、なかなか「金銭的待遇」の改善は難しいかもしれないが、「ADという隷属的な立場」を変えることは、本気になればできるような気がするのだ。

「人間の扱いを受けなかった」かつてのADの働き方

私たちが業界に入った頃は、ADはまったく人間的な扱いを受けていなかった。

あたかも「ディレクターの手下、あるいは奴隷」として、言われるがままにディレクターの雑務をこなし、個人的な買い物や用事まで押し付けられて、パワハラや場合によっては暴力などを受けることすらあった。

家にもほとんど帰れず、徹夜や泊まり込みが続き、服が臭ってくる。そのイメージが現在でもあまりにも強すぎる。これでは、人権意識の高い現代の若者が「絶対やりたくない」と思うのは当然だ。

写真=iStock.com/K-Angle
※写真はイメージです

しかし、実はいまADの仕事はそんな「雑用」の域を出つつある。

いろいろなソフトを使ってパソコンで番組制作の大半が行われているいま、時代遅れでITリテラシーの低い中高年のディレクターよりも、よっぽど若いADの方がある意味「使える存在」なのだ。

威張っているおっさんディレクターも、実はさまざまな面でADに頼っていて、彼らがいないと自分ではできない作業も増えてきている。番組制作費の削減により、ADが撮影を行ったり、1人でロケに行ったりすることも非常に多い。

いまや、実態的にADは「ディレクターとほぼ同じ、あるいは場合によってはディレクター以上の」働きをしているのがある意味テレビ業界の実態なのだ。

「ADの呼称変更」が希望であると言える理由

だとすれば、「ADという仕事をなくし、YDとしてちゃんと認める」という日本テレビの新しい取り組みは、ある意味精神論かもしれないが、あながち意味のないことではないのではないか。

もちろんそれは今後YDと呼ばれる人たちがどう扱われるかという「実際の運用」によるとは思うが、「隷属的なADではなく、YDとして一人前のプロとして認められる」ことによって若いテレビマンたちがやる気を出す可能性もあると私は思う。