※本稿は、野口憲一『「やりがい搾取」の農業論』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
海外のカイワレ大根は長さが不揃い
有機農業であろうと植物工場のような栽培方法であろうと、農業にとって重要なのは農家としての高い技術や技能、そして植物への愛情です。
このような植物に対する捉え方、すなわち農業観は何も農家の中にだけ存在しているわけではありません。このような感覚は、文化として社会全体に存在しているというのが民俗学者としての私の見解です。その証拠として、日本のスプラウト野菜の代表格であるカイワレ大根と、アメリカのスプラウト野菜を比較してみてください(図表1)。
アメリカの売り場の写真にうつっているのは、さやえんどう(snow pea)とひまわり(sunflower)のスプラウトです。カイワレ大根とは作物の違いはありますが、着目していただきたいのは、その形状です。カイワレ大根が整然とした長さに揃っているのは単なる偶然ではなく、農家の技術の結晶なのです。食物としての合理性のみを追求すれば、アメリカの売り場のようなカイワレ大根でも別に構わない。しかし、購入意欲をそそられるのはどちらでしょうか? 日本人であれば考えるまでもなく、日本のカイワレ大根型の形状を選ぶに違いありません。
このカイワレ大根に象徴されるように、日本では見た目の美しさまで重視した野菜がスーパーに並べられ続けてきました。日本の農家は、見た目の洗練さえも追求し続けてきたからです。結果的に、それこそが我々日本人にとっての農作物のイメージとなりました。見た目の美しい農作物が絶えず当たり前にスーパーに陳列され続けることによって、その商品イメージが消費者にまで浸透しているのです。
もちろん、消費者はカイワレ大根の作り方の違いなど知るはずがありません。しかし消費者は、見た目も美しい野菜を選択して購入するという消費行動を通して、知らず知らずのうちに農家の作物への眼差しを受容し、野菜という商品に対する審美眼を形成してきました。平たく言えば、我々日本人はこのような価値観をいわば文化にまで昇華させてきたわけです。
しかし、このような農家と消費者が共有する価値観こそが、実は農家にやりがい搾取を強いてしまう原因なのです。