旧第一勧銀と旧富士銀の失策だった

2度目の大規模システム障害は東日本大震災直後の11年3月15日に起こった。みずほ銀行東京中央支店に開設された義援金受付口座への振り込み件数が容量上限を超え、夜間のバッチ処理が追いつかず、翌日に処理が積み残された。このため翌16日の営業時間帯のオンラインシステムの起動が遅れ、未処理の決済データが積み上がって勘定系システムが不安定化し大規模システム障害に発展した。17日には勘定系システムが強制終了し、ピーク時に116万件もの未処理取引が発生した。

この事態を重くみた金融庁は銀行法に基づく業務改善命令を発出。経営責任をとって西堀利頭取とシステム担当常務が辞任に追い込まれた。金融庁は、業務改善命令の中で、みずほフィナンシャルグループの一体感の醸成への取り組みが十分ではなく、みずほの企業風土に問題があると指摘。タスキ掛け人事の解消、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行の合併による「2バンク制」の解消を求めた。

約10年刻みで発生した2度のシステム障害でみずほグループ全体の人事は大きく狂いを生じた。システム障害はリテールを担うみずほ銀行の問題であり、実質的な母体である旧第一勧銀と旧富士銀の失策と捉えられた。

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他メガバンクは「1社1ベンダー」だが…

その結果、「みずほ銀行をみずほコーポレート銀行に吸収合併させる形で新みずほ銀行を立ち上げるワンバンク構想が練られ、その最初の頭取に持株会社の社長であった佐藤康博氏が就いた」(みずほ銀行OB)とされる。第一勧銀と富士銀出身者が務めていたみずほ銀行頭取に、はじめて興銀出身の佐藤氏が就き、持株会社の社長も兼務することは、みずほグループのガバナンスを完全に興銀が握ったことを意味していた。

その後、佐藤氏によるみずほ統治が続き、スローガンとして掲げられた「One MIZUHO」のもと、基幹システムを最新鋭の「MINORI」に移行させるプロジェクトに着手する。この間、FGトップは佐藤氏から同じ旧興銀出身の坂井辰史氏に継承された。だが、「三菱UFJが日本IBM、三井住友がNECを中核にシステム統合したのに対し、みずほは日本IBM、富士通、日立製作所、NTTデータの4社体制を活かして統合するマルチベンダー方式が採用された」(みずほ銀関係者)。それだけ移行作業は複雑化し、総投資額は4500億円規模、開発工数推定20万人月に及んだ。

新システムへの移行が順調に終われば、みずほのシステムは、業務・機能別にコンポーネント化された最新鋭のものとなり、競争力が飛躍的に高まる。新商品・サービスへも柔軟に対応でき、開発期間やコストも3割程度削減できると試算された。