みずほは2000年に都市銀行の第一勧業銀行と富士銀行、長信銀であった日本興業銀行の3行が統合して誕生した。まず1990年代後半に第一勧銀、富士の2行が急接近したのが始まりだ。ともにバブル崩壊後の不良債権処理に苦しみ、再編に活路を見出そうとしていた頃だった。「両行は安田信託銀行(現みずほ信託銀行)を結節点にして急接近した」(みずほ銀行元役員)とされる。そこに分け入ったのが日本興業銀行だった。
「3行が一緒になれば世界一の銀行が創れる」
1998年に日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が相次いで倒れ、次は興銀の番かと市場の圧力は高まっていた。すでに長短金融の分離行政は解かれ、長信銀という枠組みは制度的に行き詰まっていた。そこで興銀の西村正雄頭取(当時)は安倍晋三氏の叔父という政治的な力も駆使して第一勧銀の杉田力之頭取、富士銀行の山本惠朗頭取に統合を持ち掛けた。「3行が一緒になれば日本一、いや世界一の銀行が創れる」というのが殺し文句だった。
1900年、明治の殖産興業を支える特殊銀行として設立されたのが興銀である。「工業の中央銀行」と称され、戦後は金融債で資金を調達し、重厚長大企業への長期資金の供給を行い、日本の高度成長を支えた。新日本製鉄や日産など日本を代表する大企業の再編を陰で差配したのも興銀だった。「天下国家を論じる」のが興銀マンの伝統だった。
しかし、高度成長期も過去のものとなり日本経済が成熟する中、興銀をはじめとする長信銀の存在意義は急速に失われていった。そしてバブル崩壊でその終焉は決定的なものとなった。1990年代後半に入り、制度的な行き詰まりと不良債権の重みに興銀は押しつぶされる寸前だった。危機に瀕した興銀は第一勧銀と富士銀行の統合に活路を見出そうとした。そして西村頭取は1999年夏、みずほ誕生をものにした。みずほは一面では興銀救済の枠組みであったと言っていい。
「どこのシステムを使うか」が主導権争いの火種に
3行統合で誕生したみずほ銀行は上場企業の約7割と取引を持ち、約2400万の個人口座を誇る巨大銀行である。「資産規模トップの第一勧銀」「実質的に邦銀トップバンクであった富士銀行」「天下国家を体現する興銀」の3行が統合して誕生した銀行であるため、広範な営業基盤は当然である。だが、このそれぞれ頂点を自負する3行が一緒になったことで、皮肉にも内部の主導権争いは長くみずほの宿痾となっていく。