これは新政府入りの内定を意味したが、新政府側は軽装で上京するよう慶喜に求めていた。しかし、実際は幕府や会津・桑名藩など徳川方の兵士が大挙京都に向かう。

その際、徳川方は慶喜自ら起草した「討薩の表」を携えていた。薩摩藩討伐を新政府に届け出た上での進軍であり、慶喜が戦意旺盛だったことは明らかだろう。

ところが、慶応4年(1868)1月3日に徳川方は京都南郊の鳥羽・伏見で防衛線を張る薩摩・長州藩に敗北を喫する。5日には、官軍であることを示す錦の御旗が薩長両藩の陣営に掲げられた。これを知った慶喜は大きな衝撃を受ける。

尊王の志が篤かった慶喜は賊軍つまり朝敵の烙印らくいんを押されたことで、一転弱気となる。戦意を失った。徹底抗戦を諸将に訓示して味方を欺いた直後、城内にいた会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬たちに密かに同行を命じ、6日夜に大坂城を脱出する。翌7日朝、軍艦開陽に乗船し、海路江戸へと向かった。

一方、置き去りにされた格好の前線の将兵たちは驚愕する。というよりも、憤激したと言った方が事実に近かった。

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慶喜の苦しい弁明

昔夢会の場でも鳥羽伏見の戦いの顛末てんまつは取り上げられており、慶喜は編纂員から討薩の表について問われる。慶喜の名で起草された薩摩藩に対する宣戦布告書である以上、薩摩藩と戦う意思は明らかなはずで、編纂員はその点を確認しようとしたのである。

ところが、速記録によれば慶喜はこれに答えず、話をそらしている。重ねて問われると、こう答えた。

「それは確かに見たようだった。実は、うっちゃらかして置いた。討つとか退けるとかいう文面のものを持っていたということだ」

慶喜自身は大坂城を出陣せず、徳川方を京都に向かわせたが、これについては次のように答えている。

「私は不快で、その前から風邪をひいて臥せっていた。寝衣のままでいた。するなら、勝手にしろというような考えも少しあった」

鳥羽伏見の戦いは戦意旺盛な家臣たちと薩長両藩が起こした戦いだったとして、ひとごとのようなスタンスを取っている。朝敵に転落した原因となった戦いは自分が起こしたものではないと言いたかったわけだが、さすがに無責任のそしりは免れないだろう。