秀吉に戦いを挑んだが、あっさりと降伏してしまう
さて、三法師が織田家の当主に決まった後、秀吉と対立した三男・信孝が三法師を手許から離さなかったので、秀吉によって代わりに信雄が織田家の当主にまつり上げられた。
信雄は、これで一時満足したようだが、やがて秀吉は巨大な大坂城をつくり始め、天下人として行動するようになる。すると、ないがしろにされたと感じた信雄は、秀吉に内通したとして家老3人を殺害し、徳川家康と結んで秀吉に戦いを挑むことになった。
一説には、秀吉が挑発して、信雄を挙兵させたのだともいう。こうして天正12年(1584)、信雄・家康連合軍は尾張(愛知県西部)の小牧山に陣取り、秀吉は楽田に陣をすえた。総兵力は徳川・織田連合軍2万に対し、秀吉方は諸軍あわせて10万だったと推定される。
本軍は数カ月間、対峙を続けたが、この間、信雄の領地は、秀吉の別働隊による侵略が進んでいった。長久手の戦いでは、徳川軍が羽柴軍を撃破するが、なんと、まもなく信雄は家康に相談なく、秀吉と単独講和を結んでしまう。秀吉が、さらに信雄の領地に軍勢を送って伊賀国を奪い、南伊勢を制圧、ますます圧迫を加えたからである。
同時に、寛大な講和条件を出したという。一説には、秀吉が自ら信雄に会いにいき、手を握って涙を流し、その不義をわびたという伝承もある。
秀吉との立場は完全に逆転し、家臣のような立場に
信雄が勝手に講和してしまったので、大義名分を失った家康は仕方なく、次男の秀康を秀吉に差し出して兵を引いた。翌年、秀吉は、紀伊(和歌山県、三重県南部)と四国を平定、関白に就任し、朝廷の権威を利用して政権を樹立した。
この年、信雄は秀吉の招きで上洛し、大坂城を訪ねて茶を馳走になり、従三位権大納言に叙されたが、秀吉との立場は完全に逆転し、家臣のような地位に落ちた。その後、秀吉は家康を臣従させ、九州を平定し、天正18年(1590)、最後の仕上げとして20万の大軍で関東の小田原北条氏を包囲した。
北条氏を平定さえすれば、東北の諸将もいっせいに豊臣方になびき、秀吉が天下を統一するのは確実だった。この小田原平定に、信雄も1万5千をつれて参戦し、韮山城(静岡県伊豆の国市)を攻めた。
同年7月13日、北条氏を平定した秀吉は、開城させた小田原城において、諸大名を招いて論功行賞をおこなった。信雄は、韮山城攻撃の功績で家康の旧領を与えられ、新地へ転封することになった。尾張と北伊勢五郡の大名から、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃(主に東海から信州にかけて)を有する5カ国の大大名になることが決まったのである。