よかれと思った判断の結果、すべての領地を没収されてしまう

ところが、である。信雄は、考えた末に「私は父・信長が残してくれた今の領地で満足していますので、このままで結構です」と加増を固辞したのだ。どうやら、父祖の地である尾張から離れたくなかったらしい。おそらく信雄は、加増を辞退しただけなので、とくに問題ないと判断したのだろう。

むしろ「功績のある自分に5カ国も与えなくて済むのだから、秀吉は喜ぶだろう」と、軽く考えた可能性もある。だが、そんな軽い気持ちでの返答が、信雄の人生を一変させてしまったのだ。

小瀬甫庵おぜほあんの『太閤記』には、「粤に甚逆なる事あり。信長公二男北畠中将信雄卿をば、秋田へ遠流せられにけり」(檜谷昭彦・江本裕校注/岩波書店)と書かれている。「甚逆なる事」とは、加増による転封を固辞したことだろう。

そう、これにより信雄は、すべての領地を公収され、配流処分になったのである。まさか信雄自身も、こんな厳罰が待っていようとは、夢にも思わなかったろう。それは、ほかの大名や同時代の人びとも同じ気持ちだった。

ルイス・フロイスは、この件に関して、その著書『日本史』で次のように記している。「かつて関白は信長の家臣であり、その人物(信雄)は(ほかならぬ)信長の息子であったこと、彼の領国の国柄ならびに高貴さ、また信長の司令官や武将達の大部分が参集して、その側近者が豪華であったことなどをかんがみて、このできごとは日本中にいいようのない恐怖と驚きょうがく愕を与えた。(信雄は)日本におけるもっとも強大で高貴な武将の一人であったにもかかわらず、関白はただ一人、小者と称されている若者しか仕えることを許さぬことにしたので、万人に驚愕の念を生ぜしめずにはおかれなかった」(藤田達生著「豊臣期の織田氏―信雄像の再検討―」柴裕之編『論集 戦国大名と国衆 20 織田氏一門』岩田書院)

秀吉に許しを請うて“お話し相手”にしてもらう

このように、秀吉の信雄に対する処置は、「日本中にいいようのない恐怖と驚愕」「万人に驚愕の念」を与えることになった。秀吉という天下人の機嫌をそこねたら、たとえ主家筋の人物であっても、すべてを取り上げられてしまう。秀吉は自分たちの生殺与奪権を握っているのだということを、諸大名に改めて実感させることになった。

ちなみに、秀吉が信雄を配流したのは、転封を固辞したのに加え、京都に壮麗な屋敷をつくって天皇に行幸してもらおうとしたことも、気に触ったのだといわれる。

それにしても、信雄にとっては青天の霹靂だったろう。なお『太閤記』にあるように、すぐに信雄は秋田へ送られたわけではなく、最初に下野烏山しもつけからすやま(栃木県烏山市)に流された。このとき、一切家臣は従うことが許されず、身の回りの世話をする小者一名がつけられただけだった。秀吉の怒りの大きさがわかる。

翌年、秋田へ身柄を移されたらしい。その後、さらに伊予(愛媛県)に移っている。この間、信雄は出家して常真と名乗った。もし、信雄にプライドがあるなら、そのまま世を終え、矜恃きょうじを保つべきだった。