織田信長の次男・信雄は、織田家を引き継ぐ立場にありながら当主にはなれなかった。歴史研究家の河合敦さんは「それは周囲から凡庸だと思われていたからだ。だが、凡庸だったからこそ幕末まで大名としての地位を守ることができた」という――。(第1回)

※本稿は、河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)の一部を再編集したものです。

織田信長イラスト
イラスト=『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』

周囲から凡庸だと思われていた信長の次男

織田信雄は、信長の次男である。だから、本能寺の変(1582)で、父・信長と兄・信忠が自害した後、本来なら織田家の当主となり、父の天下統一事業を引き継ぐ立場にあった。ところが、羽柴(豊臣)秀吉の策略によって、織田家の当主は、清洲(愛知県清須市)会議であっけなく信忠の嫡男・三法師(まだ3歳の幼児)に決まってしまった。

ただ、信雄が当主になれなかったのは、ある意味、仕方がない。なぜなら、彼は凡庸だと思われていたからだ。

実際、清洲会議では織田家の重鎮・柴田勝家が三男・信孝を後継者に推したのに、信雄を押す重臣は誰もいなかった。信雄の低評価を決定づけたのは、信長が亡くなる3年前の天正7年(1579)のことだった。

当時、伊勢国南部(三重県)を支配していた信雄は、父に無断で隣国・伊賀(三重県西部)へ攻め込んで大敗を喫し、激怒した信長から激しい折檻状せっかんじょうを突きつけられた。その内容を現代語訳すると、こんな感じになる。

「このたびの伊賀への出陣は天罰だ。お前は、上方へ出陣すると民百姓が難儀すると考え、近くの伊賀に兵を繰り出したのだろう。若気の至りであり、誠に無念至極だ。お前が上方へ出陣するのは、父や兄のためであり、そして、なによりお前の将来のためなのだ。なのに、勝手に伊賀へ兵を出したうえ、重臣らを討ち死にさせたのは、言語道断の曲事。そんなことでは、もうお前とは親子の縁を切るしかないな。使者から直接申し聞かせるから、よく肝に銘じておけ!」