豊臣家が滅亡したタイミングで再び領土を与えられる

その後、信雄は大坂の天満てんま屋敷に住むようになり、大坂城の豊臣秀頼のご意見番のような立場となり、豊臣家で重んじられた。しかし、慶長19年(1614)、豊臣氏と徳川氏の関係が決裂すると、大坂から逃げ出し、幕府の京都所司代の保護を受け、嵯峨へこもってしまった。

家康はこの決断を喜び、使者を派遣して信雄を讃え、大坂城を攻撃するため立ち寄った京都の二条城で久しぶりに信雄と会見した。豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、信雄は大和、下野のうち5万石を与えられた。すでに長男の秀雄は5年前に死んでしまっていたので、信雄は四男の信良に2万石を分け与え、自分はそのまま京都にいて悠々自適の生活を送った。

その間、徳川家康も死に、将軍は秀忠を経て家光になっていた。寛永5年(1628)にはそんな将軍・家光が催した江戸城の茶会に参列している。それから2年後、信雄は京都の北野において73歳の生涯を閉じた。

凡庸だったからこそ最後まで生き延びることができた

その遺領は、五男・高長が相続した。四男・信良の系統は上野小幡こうずけおばた藩(群馬県甘楽郡小幡)として、五男・高長の系統は宇陀うだ松山藩(奈良県宇陀市)として存続することになった。

河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ 「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)
河合敦『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)

数多くいた信長の息子のうち、幕末まで大名としての地位を守ったのは、この信雄の家柄だけだった。いずれにせよ、こうして信雄の人生を追っていくと、プライドが高い割には決断力に欠ける人情家で、お人好しのような印象を受ける。そんな性格が災いして、秀吉に天下を簒奪さんだつされてしまったものの、家康から危険人物と見なされなかったことが、大名として存続できた要因のようにも思える。

三男・織田信孝のように有能であったら、間違いなく信雄は天下人たちに生かされていなかっただろう。凡将であったこと、それが皮肉にも、命脈を保つ最大の要因となったのではなかろうか。

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