当たり前のことのようだが現代でも通じるメッセージである。たとえば近年、世界中でさまざまなAI技術が開発されている。もしくはアメリカ型の人事評価システム、雇用形態、管理手法などが「最先端の経営手法」としてよくビジネス書のテーマになる。教育や子育てにおいても、しばしば欧米のメソッドが話題に上がる。それらをそのまま無批判に受け入れることはいかがなものかと言っているわけだ。

しかし、逆にいえばローカライズさえきちんとすれば海外発祥の文化であろうと日本の文化と一体化させることは可能だと言っている。

なぜ『国体の本義』がファシズムに利用されたのか

国体の本義』はファシズムだけではなく、共産主義も自由主義も日本には合わないとした。国のあり方としては、自助型でも公助型でもない、共同体や家族の延長線上としてお互いを助け合う「共助」の国家であるべきだと言った。現代でも通用する至極真っ当なことを言っている。

ところがこの作品が国民に広まる段階でごく一部のテキストが恣意しい的に切り取られ、本来の趣旨とは正反対の使われ方をされてしまった。なぜそのようなことが起きたのか。

それは結局、人間の読解力は自分の先入観を超えることが難しいからだろう。

読む前に無意識の結論があり、パッチワークのように都合のいいところだけを読み取っていくのが多くの人の本の読み方である。客観的にテキストと向き合い、テキストの論理に内在して読む行為ができるのは、特殊な訓練を受けた人に限定されてしまうのだ。

たとえば魯迅の処女作で『狂人日記』という短編小説がある。

神経衰弱症の主人公による一人語りの手記という体裁をとられており、作中には人の肉を食べることを妄想する場面が出てくる。この主人公には四書五経を読んでも、「人」「食」「肉」という言葉しか記憶に定着しないのだ。

この作品に対する一般的な解説を見ると、「当時の儒教をベースとしたかたちで、中国の封建制を批判している」と書かれていることが多い。しかし、私は魯迅の小説はイデオロギー的な読み方をしないほうがいいと思っている。

自分の考え方は一旦脇に置き、相手の論理に内在しながら作者が作中でどんなことを考えているのか読み取っていく。そうしたメタの立場からの読書は、日頃からの訓練で可能になる。

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「寛容を説く本」が不寛容を助長する道具になった

『国体の本義』を読み解くうえで右翼と左翼について整理しておく必要もあると思う。

もともと右翼と左翼という言葉はフランス革命時の国民議会から来ている。議長席から見て左側に陣取ったのが革新派で、右側に陣取ったのが保守派だった。

左翼陣営の特徴は個人の理性を尊重することだ。十分な情報を与えられ虚心坦懐な議論をすれば結論はひとつになると考える。裏返していえば個人の力を結集することで理想的な社会を構築していくことができると考えている。