当時の日本にファシズムが適さないことは、この書の結語の次のような文からも見てとれる。

かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主義・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまヽ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。P.139~140

この著者は「全く不可能」とまで言っている。

そのロジックを簡単に説明すると、ファシズムもナチズムもしょせん、前提とするのは個体がバラバラの状態であり、それを政治的な力で束ねようとする思想である。

個人主義を越えた「日本人の和」

しかし『国体の本義』ではこうした個人主義的人間観自体を否定し、「日本人の和」でそれを超越しようとした。

たとえばこのような記述がある。

役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。(中略)このことは、また郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭つくし、分を発揚するより外はない。(中略)要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。P.51~52

そしてこの後に聖徳太子の「和を以て貴しと為し、忤ふることなきを宗と為す」という有名な憲法十七条を引き合いに出し、これがまさに日本における和の大精神であると説いている。

「醇化」の重要性

『国体の本義』の使命は西洋の文化を受け入れる余地を残すことだった。ここに関しては次のようなことが書かれている。

我が国に輸入せられた各種の外来思想は、支那・印度・欧米の民族性や歴史性に由来する点に於て、それらの国々に於ては当然のものであつたにしても、特殊な国体を持つ我が国に於ては、それが我が国体に適するか否かが先づ厳正に批判検討せられねばならぬ。即ちこの自覚とそれに伴ふ醇化とによって、始めて我が国として特色のある新文化の創造が期し得られる。P.131

醇化じゅんか」という言葉は耳慣れないかもしれないが、余計なものを省きながらじわじわと自分のなかに取り込んでいくイメージである。海外からやってきた技術なり文化なり考え方はそのまま受け入れるのではなく、自国の国民性に合うかしっかり吟味し、しかるべきローカライズ(土着化)をすべきであると言っている。