立派な教育基本法をつくれば立派な日本人をつくることができるとか、マニュアルを使って愛国心を育むことができるといった発想は右翼的のように見えるかもしれないが実は左翼的思想だ。
それに対して右翼的思想は個人の理性に限界を認める。人に理性があるといっても育つ環境も文化も違うし、人には偏見があるのだから、いくら虚心坦懐に議論しても結論は1つになるとは限らないと考える。
となると、複数の結論があるなかで人々が共存するためにはお互いを尊重するしかないという多元主義と寛容の発想に行き着く。
『国体の本義』を読めば、寛容を説く本であることは明らかだ。それが軍国主義という不寛容を助長する道具として使われてしまったことは皮肉である。
アメリカから持ち込まれた3つの価値観の限界
『国体の本義』を通してわれわれが考えなければいけないもうひとつのことは、戦後的な価値観である。『国体の本義』が禁書となったかわりに、戦後の日本はアメリカから三つの価値観を植え付けられた。「個人主義」、「合理主義」、「生命至上主義」だ。
この三つの価値観はいま危機に瀕している。
たとえば東日本大震災では原発事故が起きた。東京電力は民間会社なのでそこで働く人々には職業選択の自由があり、もし作業者が「個人主義」「合理主義」「生命至上主義」を掲げて「こんな怖いところで命を懸けて仕事をすることほど非合理的なことはありません。今日で失礼させていただきます」と言ったら、それを止めることができる法律はない。
コロナ禍にしてもそうだ。感染の危険のある状況において医師や看護師に対して医療活動に従事しろと命令することはできない。医療に限らず、ライフラインに関わる仕事をしている人全員に言えることである。
もちろん自分の権利を主張して辞める人もいる。そうした行為を「勇気のある決断だ」と褒める人もいる。しかし、いまの社会は「誰かがやらないと社会が維持できない」という献身的な態度によってなんとか維持できているわけだ。
戦後的価値観は今後もますます浸透していくだろう。そのとき果たして社会が維持できるのかという深刻な問題が浮かび上がる。『国体の本義』を改めて読みながら、そんなことを思った。