エリートとはそもそも何なのか

コリン・L・パウエルの人物像を語る上で示唆深いのは、彼が逝去3カ月前に受けたインタビューで、「あなたが知るなかで最も偉大だった人は誰ですか」と問われ、「それはアルマ・パウエルだ」と半世紀以上も連れ添った妻の名を挙げた挿話である。それは、幾度も妻を「トロフィー・ワイフ」として取り替えたトランプとは対照を成す姿勢である。

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アレクシス・ド・トックヴィル(思想家)が1830年代に察知していたように、米国社会は、万事、「カネと才能」が幅を利かせる特性を持つ社会であるけれども、その中では、トランプは、その「カネと才能」が自分のためにあると考える「セレブ」に過ぎなかった。「セレブ」とは、「カネと才能」に恵まれているとはいえ、結局のところは、「自分がかわいい人々」なのである。そうした「セレブ」、即ち「自分がかわいい人々」をホワイトハウスに送り込んでしまったところにこそ、米国民主主義の危機が表れる。

片や、パウエルは自らの「カネや才能」で公益に貢献できると考える文字通りの「エリート」であった。後でも触れるように、「エリート」とは、自ら仕える高い「価値」を持ち、それぞれの社会における「真善美」の基準に沿って社会に規範を示す人々のことである。パウエルは、そうした姿勢を自らの公的生活において貫徹していた。トランプの4年の執政の後であればこそ、「パウエルこそが米国史上初の黒人大統領に相応しかった」という評価は、重い響きを持っている。

パウエルが体現していた米国の「美風」

2005年1月、パウエルは、国務長官退任に際しての挨拶の中で、米国外交に携わる外交官たちを「米国の価値観の配達人」と呼んだ上で、「諸君の任務は、説教をしたり押し付けたりするのではなく、民主主義が人々に対して一層、い生活をもたらすのだと示すことである」と訓示した。

この訓示に醸し出されるパウエルの認識は、第二次世界大戦後、永らく「米国の良心」として語られたジョージ・F・ケナン(歴史学者)のものに近似している。ケナンもまた、冷戦期以来の米国の対外政策展開の骨子が、自由や民主主義に絡む米国の「美風」を護持することにあると主張していたのである。