リベラルも「偏狭」と「偽善」に陥っていないか

片や、民主党の有り様に影響を及ぼす米国のリベラル思潮は、パウエルの姿勢とは異なり、「『マイノリティ』層の権利の尊重」を語り過ぎる余りに、米国の全体的な「公益」への感覚が鈍くなっている嫌いがある。そして、米国のリベラル思潮の示す「寛容」は、そうした「マイノリティ」層の立場を闇雲に称揚することによって、実質上、他に対する「偏狭」の相を示すものになっていないか。

加えて、米国のリベラル思潮を導くメディアや知識人は、そうした「寛容」の姿勢を示す自らを省みて悦に入る「偽善」に陥っていないか。ジョン・F・ケネディが示した「国が自分のために何をしてくれるかではなく、自分が国のために何ができるのか」と問う姿勢は、果してどこまで引き継がれているのか。

2008年以降、4度の大統領選挙に際して一貫して民主党候補を支持し、その故にこそトランプからは「典型的なRINO(Republican In Name Only/名ばかりの共和党員)」と揶揄されたパウエルが、それでもなお「共和党穏健派」としての声望を保った事情は、彼におけるリベラル思潮との「距離」を示唆する。

現今の米国においては、共和党・保守主義思潮における「堕落」と民主党・リベラル思潮における「偏狭」や「偽善」が、その政治「分断」を深めているものであるけれども、その双方の悪しき傾向をがえんじなかったことにこそ、パウエルの政治上の見識がある。

「武官」としての存在意義

パウエルは、米国の「生粋の武官」であり、真正の「エリート」であった。一般的には、人々は高々、他人の生命や財産をまもるだけのために自らの命を張ることはできない。武官にそれができるのは、彼らの職務がそれぞれの国々の「真善美」の価値の基準を護ることに結び付いているからである。

「衣食住が足っているとはいえ、自由や民主主義をうしなった」米国は、果たして米国と呼べるか。「米国を護る」とは、そういう「価値を護る」という趣旨のことである。そして、パウエルは、真正の「エリート」として、そうした米国の「真善美」の基準を体現し続けた。天皇陛下を含む皇室の方々が「真善美」の基準を体現する存在としておわす日本とは異なり、米国には、パウエルに類する一群の人々の存在が大事なのであろう。

結局のところ、パウエルの人生は、「自ら護るべきものを自ら体現してきた」というものではなかったか。それは、「誠に高貴な人生」であったという評価になるのであろう。