――なるほど。事業拡大の一環としての駅弁事業だったのですね。差別化された商品ではなかったので、経営が苦しくなって「いかめし」を販売するに至ったということですか。

【今井】そういうわけではありません。「いかめし」が生まれたのは、1941(昭和16)年です。当時の日本は戦争のさなかで、お米を確保するのが難しくなっていました。噴火湾に面する森町、函館のあたりでは、今ではあり得ないほどスルメイカがたくさん獲れていました。そこで、最初はイカの胴体に、北海道にまつわるトウモロコシやジャガイモを入れて煮たのですが、しっくりこない。ところがイカにわずかなお米を入れて煮るだけで、結構パンパンに膨らんだのです。こうして、甘辛のタレで炊き上げる「いかめし」を、初代社長・阿部恵三男の奥さん、阿部静子が発明しました。阿部夫婦で旅館を経営していたのです。

――全国あちこちで「いかめし」を見ますが、阿部商店が戦時中に開発されたものが元祖なのですね。

【今井】そうですね。「いかめし」は、兵隊さんたちの空腹を満たしてあげたいという阿部の想いから生み出されました。当時、旭川の駐屯地へ向かう多くの兵隊さんが、森町を通り、阿部旅館の前を歩いていたのです。戦時中の食糧難だからこその発想ですね。

職人の感覚によって弁当の味は微妙に異なる

――森町が生んだふるさとの味。味はずっと変わらないのですか。

小学生のころ、JR函館本線の森駅でいかめしを売る今井社長(写真提供=阿部商店)

【今井】レシピは紙に書いたものはなく、口承で伝えられています。昔から味は変わっていません。生のイカの胴体に、生の米を入れてボイルするのですが、大鍋で一気に強火で煮るからこそ出せる味があります。似たようなものはできても、コピーはできないでしょう。赤い包装紙もずっと変わっていません。変わらないおいしさをずっと伝えていくのが、三代目としての使命です。

――「いかめし」のおいしさといえば、タレが染みたご飯の、もちっとした食感も特長ですよね。もち米を使っているのでしょうか。

【今井】国産のうるち米ともち米をブレンドしています。もち米を使うのは、腹持ちを良くするためです。食感も良いですしね。かと言って、もち米だけだとお餅になってしまう。普通のお米、うるち米だけだとパサパサになってしまいます。ギリギリの線で配合しています。お湯で煮た後、タレで煮ます。大鍋で一気に大量に煮るので、中にはタレが染みていないものもあります。たまにクレームをいただきますが、見た目でタレが染みていないのも「いかめし」として正解なのです。機械で作っていないぶん、ムラはあります。家庭料理のようなもので、だから飽きないのかもしれません。職人さんによって作風も微妙に異なっています。

手作業でイカに米を詰めていく(写真提供=阿部商店)

――タレはどのように作っているのでしょう。

【今井】タレは作り置きせず、その都度作ります。ただし配合はとても難しくて、職人の舌で確認して決めます。イカは煮ると半分くらいに縮んでしまいますが、やわらかさ、厚みによっても配合は異なってきます。煮てみて、イカのテカり具合を確認しつつ、醤油を足したりザラメを足したりと、どんどん調整していきます。イカの特性、温度、湿度などいろんな要素を考えて配合しないと、納得できる味にはなりません。秘伝のタレがあるのではなくて、そういった作業のノウハウこそが、代々受け継がれている秘伝です。

イカを煮る甘辛のタレは各職人が調整している(写真提供=阿部商店)

――イカと職人が対話しながら作っていくような感じでしょうか。毎回全く同じ、均一的な「いかめし」を作るのは難しそうですね。

【今井】決められた味の幅があって、その範囲で作ってもらっています。味の幅によって、職人の舌の感覚で、この人は甘め、この人はしょっぱめというのはあります。駅弁大会や北海道物産展で全国を回っていくのですが、長らく続けていくと、それぞれの職人にファンが付きます。どちらの百貨店に誰が行くのかはだいたい決まっていまして、この職人の「いかめし」なら間違いない、と購入されるお客様も多いです。