ビジネスセンスがある人の言葉・ない人の言葉
ここでもう一度ビジネスセンスについて触れておこう。ビジネスセンスがある人は必ず「お金儲け」について理解している。十分に収益を生まないような赤字経営は、絶対に避けたいと願う。
そしてセンスがある人は、日本語を正しく使う。
「いいものを作れば必ず売れる」とか、「利益は必ず後からついてくる」といった、きれいごとを言わない。
これらの言い方は「収益を生み出すストーリー」として日本語がおかしいからだ。お金を生み出すのは誰なのか?
当然「私」である。もしくは「私たち」である。だから主語は必ず「私」あるいは「私たち」でなければならない。少なくとも人間であるはずだ。
「製品が売れる」「利益が出る」といった主体性に欠ける表現はしない。“言葉の戦闘力”で考えた場合でも弱々しく感じる。「私たちは、この製品でお客様のお困り事を解決し、正当な対価をいただく」といった表現が適切だろう。
このように自分自身でその「ストーリー」をつくれるか。「設計図」を描けるか。ここが問われているのだ。だからビジネスセンスがある人は、主体的なお金儲けのことがわかっている。
そしてお金がもつインパクトの大きさもわかっている。「お金がなさすぎる」リスク、「お金がありすぎる」危険性も熟知している。
だからこそ、お金をどのように主体的に生み出せるのか――そのことが正しくわかってもいないのに、「お金のことを考えるのは汚い」と受け取る人は、お金について軽視しているし、ビジネスの本質を理解していない。つまりビジネスセンスがないのだ。
「働きがい」とは、働く本質を理解した後に感じるもの
ビジネスについての私の考えを述べた。ビジネスの本質は「お金儲け」である。
そして「働く」人は、必ずビジネスを意識してもらいたいと思っている。日々の作業をこなすことが「働く」ことではないのだ。毎日出勤し、普通に働いているだけで、自動的に給与が振り込まれると受け止めている会社員はお金に無頓着かもしれない。
しかし会社を辞め、収入源を失ったとき、1万円を稼ぐのにどれほど大変か、身に染みることだろう。1万円どころか、1000円を稼ぐのも簡単ではない。
すでに家にあるものをヤフオクやメルカリで売れば小銭は稼げるだろう。しかし、そのリソース(資源)が尽きたらどうなるか。
何か売れそうなもの(有形でも無形でも)を仕入れ、付加価値をつけて販売しようとするだろうか。とはいえ、それをどのように売るのか。誰がいくらで買ってくれるのか。そのストーリーは描けるだろうか。
どんなにクオリティの高いものを製作しようが、市場に何も働き掛けないと売れない。意識しないままに儲かることはないのだ。だから自分自身で主体的に売るのである。
実際にやったことがない人にはどのように説明しても理解できないだろう。自分自身でお金儲けをしてはじめて、その難しさを知り、お客様にも仕入れ先にも感謝できるし、手に入ったお金を大事にしようと思うのだ。ビジネスの原点はここにある。
借金に苦しむ経営者を、当社の税理士やコンサルタントはいつも目にしている。資金調達に走り回る経営者を支え、銀行やファンド会社に帯同し、一緒に頭を下げて回る同僚たち。そんな彼ら彼女らを、私は知っている。
そんな姿を目にすると、お金の大切さが身にしみるのだ。
確かに、営業や販売職に就いていない限り、「お金儲け」を意識することは難しいかもしれない。しかし、ビジネスの本質が「お金儲け」であると理解したとき、自分自身の仕事がどのように貢献しているのか。
日々の努力と、その意義を理解したときにはじめて「働きがい」を覚えられるのではないだろうか。
少なくとも何かをした「甲斐」というのは、努力や葛藤の体験があってはじめて抱く感情であるわけだから、働く前から「働きがい」を覚えることはないのである。