なぜ、東大生は総じて育ちがいいのか
理三の学生の人並外れた能力を誇ってか、「赤門だけなら犬でも通る。通ってみなよ、鉄の門」とは、能く言ったものだ。
さて、あくまで傾向としての話であるが、東大生は総じて育ちがいい。
とりわけ天才型においてはそうだ。「天の下に人は平等」という教育を受ける日本人にとって、生まれと育ちによって知能が変わってくるということは心情的には認めにくいことかもしれない。
しかし、現実として、知能は親から子へとそれなりに遺伝し、その発達においては家庭環境に大きな影響を受ける。
社会的地位が高く、また経済力のある親(たいてい知能も高い)の元で育つ子どもは、よりよい学習環境が与えられる傾向にあり、遺伝的な能力の高さを環境がさらに押し上げてくれるのだ。
天才型の東大生は、父親、母親、またはその両方の知能が高く、裕福な家庭で育ち、幼少時からあらゆる学びの機会を与えられている。
海外生活、さまざまな習い事、豊富な自然体験、スポーツ経験、機械工作、何不自由なく与えられ読んできた大量の本……それらによって、彼らの精神と肉体は健やかに発達し、高い知性と教養を身につけている。
たいていは人格的にもすぐれていて、一緒にいると楽しい人たちだ。
野球の大谷翔平やフィギュアスケートの羽生結弦と同じ
ごくまれに一切の道徳心を持たないサイコパスがいるが、その類いも持ち前の高い知能で社会に溶け込み、表面上はさほど不快な振る舞いをしないので、魅力的に見える。
ただ、本人たちにまったく嫌みはないのだが、一緒にいる僕たちは事あるごとに能力の差を思い知らされ、勝手に落ち込むはめになる。
「本当に同じ人間なのだろうか?」と思うことは僕自身の経験においても一度や二度ではなかった。
もとよりCPUのクロック数もワーキングメモリも規格外なのに、その能力をフルに使ってさらなる自己進化を止めない。
自分がどれだけ努力しても、生きているうちに決して追いつくことができない才能。
スポーツでいうところの野球の大谷翔平やフィギュアスケートの羽生結弦に相当する人たちであり、平凡な東大生が同じ環境で相対するにはまぶしすぎる存在でもある。
以上が、ピンキリでいうところの「ピン」である。