1987年、国立大学の受験制度が変更され、東京大学と京都大学の“ダブル受験”が可能になった。初年度は1512人の“ダブル合格者”が出たが、彼らはどちらを選んだのか。教育ジャーナリストの小林哲夫さんの著書、『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』(光文社新書)から一部を抜粋して紹介しよう――。(第1回)
京都大学の百周年時計台記念館
京都大学の百周年時計台記念館(写真=CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

「合格最低点」をどのように割り出していたのか

【1984年】

京都大を受けるためには共通一次試験で何点ぐらい取ればいいか。

受験生の自己採点とにらめっこしたところで、京都大合否のボーダーラインは見当がつかない。共通一次全受験生のデータが必要になってくるが、文部省(当時)、大学入試センターは平均点を出すぐらいで大学ごとのボーダーラインを示さない。そこでたよりになるのが予備校の調査だ。

1980年代、全国展開していた河合塾、駿台予備学校、代々木ゼミナールの三大予備校は共通一次情報に強かった。この年、河合塾は受験生約34万人の自己採点データを集め、これらを分析して各大学に合格するためのボーダーラインを示した。同塾の塾史にこの作業の流れが記されている。

キーステーションは、名古屋をはじめ東京、大阪、福岡、仙台に置かれている。このデータが最終的に名古屋の本部に集められ、コンピュータ集計される、各大学別、学科別の得点分布が出力され、それをもとにそれぞれの地区でボーダー会議が開かれたのは、試験実施からわずか1週間後。全国から職員が集まり、30〜40人の担当者が、延々12時間にわたって議論を続け、各大学学部の合否ボーダーラインが決定していく(『ルポ・河合塾の75年』河合塾、2009年)。

大学新聞はこうした様子を冷ややかに見ていた。「予備校側の新制度入試対策がいよいよ軌道にのってきたともいえるだろう」(京都大学新聞83年3月16日)、「大学の偏差値による序列化、受験産業の肥大化――教育への介入といった新たな問題が生じつつある」(京都大学新聞84年3月16日)。

【図表1】1984年の京都大学合格者別高校ランキング
1984年の京都大学合格者別高校ランキング(出所=『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』)
◆入学定員2526人/志願者6688人/合格者=現役1015人、浪人1403人(53.8%)/入学者2536人(女子234人)