戦いには強いが統治は苦手
歴史的に、パシュトゥーン人は精強な民族として知られます。そのほとんどの期間は各部族同士で対立していましたが、ひとたびまとまれば、強大な力を発揮しました。
1709年、パシュトゥーン人のホータク族が各部族をまとめ、カンダハルにホータキー朝を樹立します。王はイラン流の「シャー」を名乗りました。ホータキー朝はイランのサファヴィー朝に侵攻し、1722年、王都イスファハーンを占拠します。イランに200年以上君臨したサファヴィー朝を滅亡させたのはパシュトゥーン人でした。
ところが、パシュトゥーン人は行政執行などの統治能力をほとんど持たず、イランで略奪・虐殺を行うのみでした。行政能力を持たないのは今も同じで、タリバン政権はパキスタン人の有能な官吏を招聘し、行政を執行させていると言われています。イランで人心を失ったパシュトゥーン人は1729年、「ペルシアのナポレオン」と呼ばれたナーディル・シャーに敗退し、イランから撤退します。
18世紀に初の統一王朝が誕生
その後、アフガニスタンで、1747年、ドゥッラーニー族がパシュトゥーン各部族をまとめ、ドゥッラーニー朝を樹立します。これがアフガニスタン全域を支配した最初の王朝です。ただし依然、有力部族が割拠する状況が続いており、王は部族長たちの取りまとめ役にすぎませんでした。
当初、王都はカンダハルに置かれていましたが、1776年にカブールに遷都されます。カブールが本格的に都市整備されはじめるのは、この頃です。
それまでは、パシュトゥーン人の本拠カンダハルのみを押さえていれば良かったのですが、アフガニスタン全土を統治する王朝として、インドや中央アジア、さらに中国をつなぐ交通の要衝カブールの戦略的地位が重視されました。
1826年、王家が分裂し、分家が王位を簒奪する形で、新たにバーラクザイ朝が成立します。1834年、国名を「アフガニスタン首長国」として、「アフガン」の呼称が初めて使われます。このバーラクザイ朝が1973年まで続く長期王朝となります。