ソ連を追い出した後に2大民族が激突
1973年にバーラクザイ朝の王政が崩壊した後は混乱状況が続き、1978年、アフガニスタン人民民主党による共産主義政権が成立。1979年、ソ連軍が人民民主党政権を支援するために軍事介入すると、アフガニスタンのイスラム主義者たちが各地で、反政府ゲリラを組織します。
彼らは「ムジャヒディーン」と呼ばれていました。「ムジャヒディーン」は「ジャヒード」つまり「ジハード(聖戦)」を行う者「ムジャーヒド」の複数形です。ムジャヒディーンはアメリカによる武器支援などもあり、ソ連軍を追い詰め、遂に撤退させます。
ムジャヒディーンは一つにまとまっていたわけではありません。大きく、タジク人とパシュトゥーン人の二つの派閥に分かれていました。タジク人を率いたのは、日本でもよく知られているアフガニスタンの英雄アフマド・シャー・マスードです。パシュトゥーン人を率いたのがグルブッディーン・ヘクマティヤールです。
彼らは協力して、人民民主党政府を駆逐し、1992年、ムジャヒディーン政権を樹立します。しかし、政権内部で、すぐに利害対立が表面化し、内戦となります。マスード派は、数の上で圧倒的多数であったヘクマティヤール派と互角に戦いました。マスードはタジク人を一致団結させていたのに対し、ヘクマティヤールはパシュトゥーン人をまとめ切れていませんでした。
パキスタン当局の工作で生まれたタリバン
このアフガニスタンの混乱の状況に介入したのが隣国のパキスタンです。パキスタンは一枚岩でなかったパシュトゥーン人勢力に接近し、切り崩し工作を図ります。パキスタンの宿敵は建国以来、インドです。1947年、イギリスの支配から、インドとパキスタンが分離独立して以来、印パ戦争を起こし、対立は今でも続いています。パキスタンはインドと対抗するために、背後のアフガニスタンに親パキスタン勢力を構築する必要がありました。
パキスタンの諜報部は若いパシュトゥーン人を支援し、彼らを軍人として訓練・養成します。彼らは学生の年代であったため、「タリバン」と呼ばれます。パシュトゥーン語で「学生」は「タリブ (Talib)」であり、「タリバン」は「学生たち」という意味になります。