「まるでダンジョン」なぜこのような形になったのか

また西武鉄道は4月26日、西武新宿駅と丸ノ内線新宿駅を結ぶ地下通路の整備に向けて、「都市計画決定後の早期実現に向けた具体的な検討や関係者間の協議を進めていく」と発表。この地下通路が整備されると、西武新宿駅と接続する靖国通り下の地下街、新宿サブナードとメトロプロムナードが新宿通りに沿って直結され、西武新宿駅からJR新宿駅の乗り換えが、現在の11分から5分に短縮される見込みだ。

この他、小田急と東京メトロが小田急百貨店新宿店を解体し、高さ約260メートルの高層ビルに建て替える計画が進んでおり、京王線新宿駅のホームを北に移設し、丸ノ内線との乗り換えを改善しようという構想もある。

終わることなく工事が進められ、ダンジョンにも例えられる新宿駅はどのようにして現在の形になったのだろうか。新宿駅の歴史をひもときつつ、郊外の田舎駅から世界一のターミナルへと成長した過程を追ってみたい。

開業初年度は1日3往復、乗客がゼロの日も

新宿駅は1885年3月1日、赤羽―品川間(現在の山手線、埼京線にあたる)を結ぶ日本鉄道品川線の駅として渋谷駅、板橋駅とともに開業した。当時、新橋駅と上野駅の間は線路がつながっておらず、東北線、高崎線と官設鉄道(現在の東海道線)を結ぶバイパスルートとして整備されたのが品川線であった。

新宿に駅が作られたのは江戸時代、甲州街道最初の宿場町、内藤新宿があり栄えていたからだ。ただ、新宿駅は用地買収が必要な既成市街地を避けるため、内藤新宿の中心部から800mほど離れた位置に設置された。

品川線の開業当時、旅客列車は1日3往復にすぎず、主に高崎線沿線で生産される生糸や織物を東海道線経由で横浜港に輸送し、外貨獲得の手段とする目的で使われた。そのため開業初年度の1日平均乗降人員は70人程度と極めて少なく、雨の日は乗客がいないということもあった。

明治時代に中央線の原型「新宿―立川間」が開業

品川線の開業から4年後の1889年4月11日、新宿を通る第2の路線として甲武鉄道の新宿―立川間が開業した。現在の中央線である。こちらも当初は運転本数が少なく、1日4往復、蒸気機関車による運転で、そのうち1往復は品川線を経由して官設鉄道新橋駅まで乗り入れていた。

筆者撮影
外濠を走る中央線は旧甲武鉄道市街線にルーツを持つ

甲武鉄道は開業にあたり「内藤新宿よりして、品川に出て新橋・横浜間の汽車に乗り移る時は東海道へ至るべく、赤羽に出れば奥州・信州・両毛・水戸へも至るべくして、交通もっとも自由なり」との広告を出している。さまざまな方面に乗り換え可能な新宿駅は、こうしてターミナル駅としての一歩を歩み始めた。