敵兵の願いにもかかわらず快く協力してくれた

さて、そのお守りである。どうにかして遺族にたどり着けないかと、私は硫黄島に関して調べまわった。そのなかで硫黄島の戦いからの生還者や戦没者の遺族でつくられる硫黄島協会という民間団体が存在することがわかった。本部は神奈川県横須賀市だ。

何とか手がかりがつかめないかという思いで電話を入れて顛末を話した。状況を理解してくれた硫黄島協会の担当者は、硫黄島から日本へ帰還した数少ない元日本兵の一人、金井啓さんを紹介してくれた。

見ず知らずの外国人から突然入った連絡だったが、金井さんは快く協力を申し出てくれた。かつて敵同士として硫黄島で対峙し、戦争という特異な状況下で殺し合ったアメリカ兵の願いであるにもかかわらず。

私はそのとき気づいた。戦争の最中は敵であった人々は、戦争が終わったら逆説的に仲間意識が生まれるのでは、ということに。ほかの人たちが理解できない、平和しか知らない世代とは語ることのできない、特殊で極端な体験を共有しているからである。私が生存者の孫同様の存在であるから、同じ仲間に入れてくれたのかもしれない。

金井さんや硫黄島協会の他のメンバーと何度か会って相談を重ねているうちに、そのお守りを靖国神社に奉納してはどうかと提案された。靖国神社には、戊辰戦争以降の戦没者が祀まつられているという。

お守りの主のことを思うと重々しかった

お守りの持ち主はわからなかったが、太平洋戦争の戦没者たちが祀られている有名な神社に奉納したと伝えれば、大叔父も喜んでくれるのではないか。私には思いつかない名案だった。

「ぜひお願いしたいです」と伝えると、金井さんは靖国神社への予約など、さまざまな段取りをしてくれた。さらに遺品を納める当日には、靖国神社へ同行してくれた。

お守りを納める儀式は短いものだった。金井さんと私が社殿に入ると、白い衣装を着ていた神主がすでに待っていた。私がお守りを両手に持ち、神主がさかきの枝をその上で振った。その後、お守りをお盆に置いて、神主がそれを引き取った。以上である。

儀式そのものはとても簡単で早かったが、私の気持ちは重々しかった。故郷から遠い硫黄島で戦わされ、お母さんや家族の顔が見たかったにもかかわらず戦場で無念の死を迎えた、名前も知らない顔立ちも知らない若い日本兵へ、一抹の責任感を感じたからである。

お守りを奉納してから十数年の歳月がすぎた。大叔父はすでに天寿をまっとうしてこの世を去った。長年の心残りが少し晴れて、安らかな思いで旅立てただろうか。その後、年賀状を交わしていた金井さんも10年以上前にこの世を去った。

あのお守りは今でも他の遺品と一緒に靖国神社にあるだろう。そう考えるだけで私もほっとしたような、うれしいような気持ちになる。金井さんの心遣いには今でもとても感謝している。